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『SOGI』通信 No.44

 今回、衆議院解散のドタバタ劇の最中で、ろくな論議もなく「脳死」を「人の死」と規定する臓器移植法の改正が議決された。
 たしかに、今回の改正案は、世界保健機関(WHO)が「臓器移植は自国で完結させるべきだ」との指針を5月にでも出し、海外での臓器移植の道を閉ざされるのではないかという、関係者の強い危機感を背景にしている。

「いのちの尊厳」という抽象的なスローガンにすれば、誰もこれを公には否定できない。だが、具体的な個のいのちのレベルで見るならば大いに異なっている。  移植推進者によれば、これによって救われるいのちがある、ということであるが、家族のいのちの脆さに直面している人にとっては、子が脳死と判定されることによって、いのちが奪われるような危機感を覚えるのだ。

 いのちの軽重は、本来は誰にも判定できるものではないのだが、具体的な場面ではどちらか一方に偏らざるを得ないという問題を抱えている。
「死」「いのち」について、このことを具体的に考えていくと、置かれた立場により多様な意見が出てくるし、それはごくあたりまえのことなのだと思う。

 かつて、人が死んで行われる「葬式」は、それぞれの地域社会において、規範となるコンセンサスがあって、その下で行われていた。今でもまだ共同体葬が生きている地域がある。
 それは地域共同体が結束して生きていた時代、ある家族に死者が出たとき、その家が弱くなり、ひいては共同体自体の弱体化を招かないように、皆がその家の弔いを手伝い、遺族が喪に専念できる環境をつくるためであった。
 しかし、そうした相互扶助は、また同時にそれぞれの家の勝手を許さないという規範と並立してあった。

 今、戦後の都市化(地方の過疎化)、核家族化によって、規範となる家(イエ)がなくなることで葬送の世界は自由化された。
 どういう死者の弔いをするかはそれぞれの家族の自由とされた。その象徴が今、都市や地方を問わずに席巻している「家族葬」ブームである。

 たしかに、肝心の死者や遺族の悲嘆を側に押しやり、「世間に恥ずかしくないように」が第一とされた葬送の習慣は見直されるべきである。死者と親しかった者によって、心おきなく、死者と充分に別れの時をもつというのは、けっして否定されるべきではない。
 だが死者の弔いは家族の勝手かと言えばそうではない。死者を囲む人間関係は当然にも血縁以外に広がっており、むしろ血縁以外の縁が強い場合もある。そうした縁者が弔いに参加できなくて、想いのやり場にとまどうことも少なくない。

 葬送のあり方はどれがいいかを決めることはできない。それぞれの死者を囲む状況が固有で異なるからだ。
 だが、「家族葬」いう形式をとる葬儀には、死者を囲む人たちの温かな気持ちが優先されるケースだけではなく、死者を冷淡視した死体処理的葬儀というケースもあり、外観的には異なるところがない、というのも事実である。
 いずれにせよ今私たちは死者の葬りについて、個人化、個性化という経験したことのない時代を迎えている。




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