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『SOGI』通信 No.34


 僧侶の集まりに招かれた時のことである。
「最近は遺族が直接挨拶にこないで、葬儀社が代わりに挨拶にくる」
 と憤慨していた。
 私は、それは違うと思ったから
「なぜ僧侶であるあなたが遺族のもとに行かないのですか?」
 と、反論した。

 その僧侶は遺族の礼儀知らずに対して憤っていたのだが、僧侶が権威であるべきという姿勢に、私は腹を立てたのである。悲嘆にある遺族に自ら関係しようとしないのか。葬式を「やってやる」という上からの目線に我慢できなかったのである。

 老僧侶の話を聞く機会があった。
「亡くなったという通知があると、私はできるだけ早く行って、枕経を勤めるようにしていた。それは遺族が不安だろうと思ったからだ。葬儀社との打ち合わせにも付き添う。葬儀社はあの手この手で不要なものまで売りつけようとする。遺族はわからないから、言うとおりにしてしまいがちだ。私はできるだけ遺族の気持ちに沿った葬儀にしたいという立場でアドバイスする。住職という立場もあるから葬儀社は無視できない。納棺にも付き合うし、葬儀が終わった後の会食でも最後まで席を立たないようにしている」

 ある意味では、こうした僧侶は葬儀社にとって煩い存在かもしれない。でも大切な檀家の葬儀に係わるという老僧侶の姿勢、覚悟には感銘を受けた。
 ある僧侶は「70万円包まなければ葬式をやらない」と葬式を依頼に訪れた遺族に言い放った。
 このことを知人の僧侶に話すと、「そういう奴がいるから、僧侶の評判を落とすのだ」と憤っていた。

 私が葬式に出て違和感を覚えるのは、式を執行する際に、司会者である葬儀社の社員が「ご導師が入場されます。皆様ご起立し、合掌礼拝ください」と言うことが多いことだ。もっとも中には「ご高齢の方がいるから、座ったままでいいよ」と事前にアドバイスする僧侶もいる。
 私の知っている僧侶に聞くと一様に司会者が言うことへ違和感を表明していた。そこで終了後にその司会者に問うと、「私も不要だと思ったのですが、地元の仏教会から要請があったものですから」と言っていた。
 葬式に緊張感がないから「これから葬式を始める」という緊張感を与えるため、と説明する人もいる。だが、導師を務める僧侶の権威づけのためなら滑稽な話だ。
 僧侶の方の集まりでは、こういう話を聞くこともある。

「会場に行くと、葬儀社の社員が案内して僧侶控室に閉じ込めてしまう。お茶の接待とか丁寧だが、遺族から隔離されてしまう感じがする」

 遺族からこういう話も聞いた。
「葬儀社からの紹介で頼んだお坊さんが、家族数人だけの葬式なのに火葬場まで同行してくれて、私たちの話を熱心に聞いてくださった。心細かったから、ほんとうにありがたかった」
 悲しみを他人事として権威だけを主張している僧侶が執行する葬式が見放されるのは当然だ。無宗教葬の増加には彼らの責任もある。しかし、遺族の悲しみに寄り添う僧侶もいる。



碑文谷 創



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