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『SOGI』通信 No.31
 死を、「一人称の死」(自分の死)、「二人称の死」(近親者の死)、「三人称の死」(他人の死)と3つに分類したのはフランスの哲学者ジャンケレヴィッチである。
 一人称の死は、語ったり、思いめぐらすことはあっても最終的に体験できない。死後のことは周囲の者に委ねるほかない。だが、80年代以降、延命第一主義への疑問が生じ、末期患者の生活の質の確保(クオリティ・オブ・ライフ)、情報の告知と同意(インフォームド・コンセント)、キュア(治療)だけではなくケアの大切さが主張された。現在ようやく不充分ながら「尊厳ある死」が社会的コンセンサスを得ようとする段階にある。

 死因のトップは依然がんである。全死亡の3割の325,941人(05年)ががんで死亡している。もちろんがんだけが問題なのではない。
 いずれにしても、自分の死に直面することは圧倒的に増えている。また、死後のことにしても、かつては当たり前のように家族に委ねられたものが、死後を世話する者がいなかったり、いても「迷惑をかけたくない」と、自分の死後のことを生前に決めておこうとする人が増えてきている。末期状態にあって人工呼吸器を外すべきか否かは「本人の意思」が決め手となっている。「自分の死」に無関心であることはできない時代になってきた。

 ターミナルケアが話題を集め、患者の人権が注目されているが、圧倒的に立ち遅れているのは二人称の死、つまり家族の問題である。
 がんの場合、いくら本人への直接の告知が増えたとはいえ、約半数は依然として「患者本人より先に家族に告知したり、希望確認する」状況である。終末期において「本人の意思も推量」しながら、最終決断を迫られるのは家族である。この家族に医療機関からケアが行われているのはわずか2割に過ぎない(厚生労働省研究班)。

 家族は、支援を得られることなく本人の死に向き合わざるを得ない。そしてそれは本人の死で終わるわけではない。家族には死後がある。家族との死別は、それまで暮らしを共有していた、大切な存在の喪失ということである。死はけっして本人だけに起こるのではない。家族もまた死を体験するのである。
 近親者と死別した人の悲嘆(グリーフ)はいままで充分に顧みられることはなかった。「早く元気になってね」「辛いことは忘れて」「時間が解決するから」等の、心ない、善意なだけに始末が悪い同情の餌食にされた。葬式では泣かないでしっかり遺族の役割を演じることが期待される。遺族は悲しみを心に封印して葬式に立ち向かい、街を歩けば元気を装わなくてはならない。

 グリーフは「早く克服して元気になる」ことが解決ではけっしてない。死者を深く想い、悲しみや嘆きを、時には怒りを表出し、悲しむ作業(グリーフワーク)こそが大切なのである。
 私は「遺族には死者を弔い、悔やみ、悲しむ権利がある」と考える。グリーフにある人へは、アドバイスは不要。ひたすらその遺族の想いに耳を傾けることが重要で、それが周囲の人のできるサポート、グリーフケアである。



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