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『SOGI』通信 No.28


 東京23区では推測するに、葬式をしない「直葬」は15〜20%におよぶ。
 かつて都内のある互助会では、直葬を件数としてカウントしていなかったというが、ここまで増えるとそうはいかないであろう。
 直葬がここまで増えたのは2000年以降のことである。時を同じくして、病院で亡くなった遺体を一時は自宅に送り安置するという習慣が、こちらは全国的に崩れた。一挙に変わった。

 人が亡くなったら「葬式をする」という、これまで当たり前であったことが、「葬式をするかどうか」選択する時代になろうとしている。
「葬式をする」ということが当たり前であったのは、遺体は弔わなければならないということが、考える以前の常識、というよりも自然な人間的感情としてあったからだ。
 家族の喪失は、家族にとってのアイデンティティを揺るがす危機であった。当然にも大きな悲嘆を体験する。その遺体を丁重に弔うということなしには、死者な
き後の家族のアイデンティティを回復できない、という想いを共有していたからである。

 そうしたものであったから遺族にとって、「葬式をする」ということは、必然であって選択の対象ではなかった。
 だから戦災や大災害で家族を喪い、満足な弔いができなかった人は、その後、長い期間にわたって悔いを心の中に抱え、後年になり法事を丁寧に営む、墓を建立するなどして回復しようとした。
 遺された家族が一人であった場合にも、その一人には弔いの責務が課せられた。この責務は外部より課せられたというより、その人の内部より自然に出る行為であった。弔いをせずに、その後の自己を想像できなかったからである。弔うということは、同時に、死者と遺された者が同じ家族であったという確認でもあった。

「葬式をする」ということは、これまで自覚されることが少なかったことであるが、遺族の死の受容ということで大きな働きをもつものである。
 死を看取り、死水を取り、遺体を自宅に安置し、枕経を勤め、死者と夜を共にし、遺体の衣装を改め、納棺し、通夜をし、葬式を行い、出棺して、火葬、拾骨し、終わった後、改めて法要をし、会食…といったステップを踏むことにより、衝撃を受け、受け入れがたい死の事実を確認し、受け入れ、心の中に区切りを付けていくことになる。葬式はプロセスだというのはこういう意味である。決して祭壇を飾っての通夜、葬式だけではない。こうしたプロセスの中で遺族は死者と心ゆくまで対話し、別れる。

 事故や自死、若くての病死、これらの場合には悲嘆は家族を超え、同僚や親しくしていた友人にも及ぶ。彼らも葬式に出て弔うことによって自らの感情を整理する機会となる。
 家族の周囲にいる人、本人と親しくしていた人々が弔いに参加し、共感を寄せてくれることが、いかに遺族を力づけるか、体験した人は知っているだろう。
 葬式は華美にする必要はない。必要以上に大げさにすることはない。必要なのは懇ろに弔うことである。早く死体処理するがごときは、死者の尊厳を侵すだけではなく、遺族にとっても不幸である。





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