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葬送の視点(2004.7) 碑文谷創


 家族と死別してしばらく経って思うことは、いま見ている光景が幻視ではないかということである。
 そこにかつてはあたりまえのように存在していた家族がいないということ。そのことがポッカリ心の中に穴があいていると感じるのだ。
 そこで人は混乱する。そこにいるべき家族が見えないのは自分に障害があるためなのか、喪われたためにそこにいるべき家族が存在しないのか。
 席を立ち、死者を探す。いないのはおかしいではないか、と。
 あるいは待つ。そこに帰ってくるのを待つ。

 グリーフにおける探索とはそういうものだろう。家族の死の事実があまりに自分にとって大きなものであるから、できれば認めたくないのだ。そこにいないのは幻視であって、時間が経てば、かつてのいつものようにまた彼(彼女)はそこにいてくれてほしいという願望なのだ。
 しかし探索行動を起こすとき、半分は死の事実を受け入れているのだ。そこにいまいないということを知っているのだから。

 葬式という装置は、人類が太古からもっているものだろうが、これはたいへんな知恵であると思う。
 人は死ぬ。これは逃れることができない。これは単純な事実であるが、これが家族や親しい者の身に起きると、その事実を受け入れることは困難なことである。
そこで近くの者たちが寄り、泣き、嘆き、たいへんなことが起きたと騒ぎ、死という事実を社会的に公認の事実にしてしまうのだ。
 それだけではない。死体をそのままにしてはおけないから葬るという物理的作業を強いる。

 現代では葬りは葬儀社が、火葬場がやってくれるが、遺族には死亡届出義務を課し、葬りを放棄すれば死体遺棄罪が待っている。
葬式の喧騒というのはやりきれないものである。あんなに騒がなくともと思う。遺族はできればそっとしておいてほしいと思う。でも周囲は勝手に段取りを決め、死の既成事実化をはかる。
 葬式を私事化するがごとき最近の密葬・家族葬ブームが危険なことはここにある。死の事実を葬式ということで露にすることを避けるとき、それは遺族自身に対し、死の事実を突きつけることを弱くする可能性があるからである。

 でも葬式は喧騒だけであったのではない。日本の葬式においては、遺族が死者の側にいて、死者と別れるための時間を納得がいくまでもったようである。
 言葉をかけても反応しない。温度は次第に低下していく。この死体に向かいあい、家族の死を事実として時間をかけて受け入れていく。
 それでも多くの場合には充分な時間ではない。ショックによって、その事実に向き合いながら事実としての認識を阻む。しかし、向き合わないよりは向き合ったほうがずーっといいことは確かである。

 そこにいないということは、家族がいないということだけではない。自分がその家族に対していた感情、役割が喪失することを意味する。つまり遺された自分の生きる意味自身が問われている。
 葬式およびその後のプロセスは家族の死を受け入れた自分の生き方を発見するプロセスでもあるのではないか。



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