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葬送の視点 碑文谷創


「おばーちゃん、たくさんたくさん僕たちをかわいがってくれてありがとう。天国に行っても、僕たちのことを見守ってください。愛するおばーちゃんへ」
 孫代表が前に出て弔辞(送る言葉)を述べる風景は珍しいものではなくなった。「残念だけど、もう苦しまなくていいのだから、最後は脚がだめになって辛そうだったから、これで母も楽になると思いますよ」
「最期はちょっと急だったから慌てたけど、ずーっと家にいて、入院したのは2週間だけ。歳だし、あまり苦しまなかったのでよかったな、と思って。私も同じようにいけたらいいなと思って」

 子どもの世代、といっても60を過ぎた人たちは、親を失う淋しさと同時に、無事に送ることができたような安堵感も見える。
「泣いちゃった。父は私の味方だったから、結婚先で苦労して泣き言を言ってもいつも聞いてくれたから。これからどうしよう、誰に愚痴ったらいいの、と父の遺体を見たら、ポカっと心に穴があいたようで、悲しくて、悲しくて。最後の最期を看取ってやれなかったのは悔しいけど、看病もさせてもらえたし、春には病院の中だけど一緒に花見もできたし」
 家族、しかも頼りにしていた親を喪うことは辛い。しかし、いつまでも一緒にいられるわけではない、ということを、家族は長い終末期の看取りの中で学習してきている。
「見るのが辛かったから。あれだけきれい好きだった母が、散らかし放題で身なりにも気をつけない。30分前に食事をしたことも忘れる。まるで餓鬼になったようで、悲しくて何度泣いたか。これで母もやっと安らかになれたし、私たちの生活もね、落ち着くでしょう」

 高齢になると痴呆になるのが避けられない。きちんとしていた親の変わりように、最初は信じられず、そのうち悪化することはあっても改善することのない症状と日常付き合わなくてはいけない。その解決が死であったと、自分がそう思うのも許せないような気がする。安堵が親の死の代償であることに後ろめたさも感じてしまう。
「淋しいね。身体は動かなくとも、話はできなくとも、いてくれるだけで私の張りだったから。もう私も身体がきついけど、お父さんが生きていてくれたから、がんばれたところもある。これからどうなるんだろう」

 配偶者の死はしばしば生きがいを失う。人生の長い同伴者の死は、遺された方へ当惑をもたらす。
 大叔母がそうだった。バス停で転んだことがきっかけで寝たきりになり、そのうち次第に反応も失っていった大叔父の枕元でかいがいしく世話をしていたが、大叔父が死ぬと気力を失い、1年後に後を追うようにして死んだ。
「ありがとう。皆にこうして送ってもらってね。幸せでした。私も父さんを無事送れたから、役割果たせたかな、と。淋しいことは淋しいけど、安心した。父さんとの一生はいろいろあったけど、苦労した人に比べれば、幸せだったと思う。今度は自分の番だけど、子どもにできるだけ迷惑かけずにいきたいな、と思ってます」
 一生を手触りできるのも配偶者ならではの感慨だろう。
 後期高齢者の死は今後も増える。



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