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葬送の視点(2004.4) 碑文谷創


「家族葬」という名前がすっかり定着し、市民権を得たようである。生活者の家族葬に対する関心、人気がひじょうに高く、かつ、ますます高まる傾向にある。
 もちろん一般的な意味での葬式がなくなるわけではない。一部ではグレードの高い葬式志向も根強くあり、これが葬式費用の平均額を下支えしている。

 この「家族葬」、人気は高いが、必ずしも概念がはっきりしていない。
 家族葬を「安い葬儀」という意味で用いる生活者も少なくないが、家族葬は相対的に価格は低めになる傾向は免れないが、価格の概念ではないだろう。

 家族葬を決める大きな要因の一つは「参加者の範囲」である。
 その葬式に誰が参加するかという問題である。
 一般の葬式には、誰が運営の主体になるかでの区分はあるが、どこまでを参加させるかという範囲の概念はなかった。

 運営主体の区分では、企業(団体)が担うものは「社葬(団体葬)」とされ、それ以外の一般に「○○家の葬儀」と言われる、遺族が運営主体となる葬式は「個人葬」として区分される。
 だが、その個人葬も、かつての日本では実質的には地域共同体がこれを担った。いわゆる共同体葬である。高度経済成長以降は、都市部ではこれに会社共同体が加わり社葬ならぬ会社葬が幅をきかしたりした。そして勿論その内枠には「親戚」という血縁共同体があった。
 つまり個人葬を中心から見ていけば、遺族、親戚、地域共同体、会社共同体と広がっていき、故人の社会性が広がれば広がるほど、地域共同体、会社共同体という外枠が大きく拡大したのである。

 高度経済成長以降の特徴に、死者である本人の社会性だけではなく、本人以外の遺族の社会性が大きく葬式を左右するようになったことがある。息子の会社関係者等、本人とは無関係の第三者が葬式に参加しだし、参加者数では、この第三者が最も多数という葬式が不思議ではなくなった。死者本人の生前を知っている者は3割に過ぎず、死者の生前を全く知らない者が7割ともなる葬式が一般的となった。
 葬式の本質は「死者を弔う」ことにある。とするならば、死者を知らない、したがって弔い手でない第三者の多数の葬式への参加は、葬式の本質を歪めるものになる。こうした過剰な社会性の広がりへの反発が「家族性志向」となって現れているように思われる。

 家族葬志向は、この過剰な外枠の拡大をどこかで阻止し、葬式を本来の死者を弔うものへと回帰させたいという願いを表明しているものである。
 枠を遺族だけに限定するか、親戚までとするか、本人の友人・知人までとするか、いずれにしろ死者本人の同心円上の関係者に限定したいとするものである。
 もう一つの重要な要因は「死者との別れ」を大事にしたいという思いである。より直接的に死者との別れに重きをおいた葬式へという志向である。
 過去にも特殊な葬式で「密葬」はあったが、一般的な葬式において参加者に枠を設けるという発想はなかった。その意味では新しい発想である。だが枠を設けざるを得なくなったのは、葬式は本来、死者の関係者が共に弔うもの、というコモンセンスの崩壊が招いた現象なのかもしれない。



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