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葬送の視点(2003.12) 碑文谷創


 葬式で宗教儀礼をするか否かが、いまや選択する時代へとなろうとしている。無宗教のお別れ会がトレンドとしてもて囃されかねない動きである。これは宗教儀礼をすることの意味を感じられない人々が多くなってきたことなのだろう。
 しかし、これは単なる葬儀形式の選択、自由の問題なのだろうか。私には、葬儀の本質に関わる問題がここにあるように思えるのだ。

 信教の自由の時代である。信教の自由とは個人がいかなる宗教を信じても自由であると同時に、宗教を強制されることからの自由、そして宗教を信じない自由をも含む。さらに個人の内面における信仰や信念において、誰もが社会的に差別はされないことを意味している。だから多様な宗教や信念があることを社会的には認容することをも意味している。
 それ故に、9割を超える日本人が仏教で葬式をしていても、2%の人が神道による葬式を望んでも、1%の人がキリスト教による葬式を望んだとしても、それが死者本人や遺族の選択したものであるならば尊重されなければならない。墓を人質に菩提寺の宗派での葬儀が強制されていいわけがない。同様に一切の宗教儀礼を排除した葬儀を1%の人が望んでもその信念は尊重されるべきである。

 日本における仏教葬儀は葬儀習俗と化すほど深く結びついている。だが、習俗だから悪いわけではない。その習俗に己の死生観を重ねられる時代はまだよかった。「あの世」という他界を信じ、それが導師が行う引導等の宗教儀礼によって導かれる世界であると感じられる場合には、宗教儀礼もまた習俗でありながら力をもつものであった。
 しかし、いま葬儀で行われている宗教儀礼の多くが、緊張を欠き、宗教的というよりも単なる世俗的慣習化していることも事実である。無宗教葬の台頭はこの証左であろう。だが、これを「葬儀新時代」と単純に歓迎していいのだろうか。

 私は、葬儀において宗教儀礼がかつてもち、そして現在もなおもつ意味は、実は「死者を想う」ことに、しかも深く想うことにある、と考えている。遺族が、参列者が厳粛に宗教儀礼が営まれる時空間の中で、心深く死者を想い、生死の境を強く体験することに意味があるのではないか。死の事実を、単なる認識ではなく、心深く体験することにある、と考えている。

 死の認識だけであれば医師による死亡判定とそれを証する死亡診断書(死体検案書)があればいい。追憶(メモリー)が必要ならば、思い出となる写真や故人の好きだった音楽がそれを助けてくれるだろう。死体の物理的な処理は火葬がしてくれるだろう。だが、それだけでは葬儀にはなるまい。深い絆を結んだ人、家族との別れ、葬りにはならないだろう。
人の死とは、大切な人との死別とは、しばしば心を揺るがせ、傷つけさえする大きな体験である。したがってその葬りは、心の底で体験するもの、つまりスピリチュアルな体験としてあらねばならないだろう。それは死者を深く、集中して想うことであると思う。

 これからの葬儀の課題は、非宗教化ではなく、トレンドに逆らうようであるが、むしろ葬儀をスピリチュアルな体験の場として再構築することにあるように思う。
  



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