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葬送の視点3 碑文谷創


「わしは普通に生活できて、普通に死んで、普通にお葬式をしてくれればいい」
 この「普通に」という言葉に対して、私たち日本人は重い生活実感と人生に対する謙虚さと、そして願いのようなものを仮託してきたように思う。

 21(22)年間という長期にわたりテレビ撮影・放映された『北の国から』の総集編と最終回を、テレビに食いつくように見ていた。純がほぼ長男と年頃が一緒だったこともあり、最初から心がとらえられた番組であった。

 その純が結婚することになり、相手が離婚歴のある「バツ1」だというのに対して、父親役の田中邦衛が31になる息子を「こいつはバツが2つも3つもある」と言う。56歳の私自身には、もうバツの数を数えることすら不可能である。

「普通の生活」というのはけっして「普通」ではなく、社会法的な「事件」をたとえ経験しなくても、私的には肝が縮むような体験、絶望、動揺、怯える「事件」をいくつも経験しているはずである。もちろん喜びや嬉しさもあったろうが。
 新聞記事だけの世界ではなく、倒産、自己破産、家庭内暴力、突然の心的あるいは身体的病気、遺産騒動、崖崩れ、ガンによる死…が身の回りで発生している。

「普通の生活」とは清廉潔白な生活でも、裕福な生活でも、難がない生活でもないだろう。バツがいくつもついても何とか生きてきた生活が、それぞれに「普通の生活」なのだろう。

「普通の死」も考えれば難しい。社会的には老いて、ボケて、家族に見放されて、病院のベッドで孤独に死ぬことも珍しくないどころか急増中である。自分の死後の始末をつけての死、家族に介護されての死は、今後「恵まれた死」となっていくであろう。

 高齢者の方が「できるだけ周囲に迷惑をかけずに死んでいきたい」と願う気持ちの切実さは、死の現状を見れば見るほどわかるような気がする。高齢社会となり、多くの人が老いを経験する時代となった。だが老いを囲む状況は容易なものではない。高齢者は自己の尊厳を犠牲にし、介護者は神経と体力をすり減らす。高齢者の会合でアンケートをしたところ、「在宅での死」より「病院での死」を願う人々が圧倒していた。理由は「周囲により迷惑がかからない」からである。「普通の死」を願う心性もささやかなものである。

 かつて故伊丹十三監督による映画『お葬式』が話題となった。お葬式を巡る人間模様がよく描かれていたが、あそこにあったのは「普通のお葬式」であった。

 私が体験した親戚の葬式のいくつかは、描写力さえあれば、あの映画の葬式よりも、もっとドラマティックで、もっとゴタゴタし、もっと笑えるものであった。20年間喧嘩別れしていた妹がかけつけたり、最後の介護をしてくれていたお弟子さんを「うっとおしい」と葬式から排除した嫁さんがいたり、通夜で食い物が不足してコンビニに子どもを走らせたり、死んだ父親にファザーコンプレックスを抱いていた娘が火葬炉の前で取りすがり号泣したり、遺産を一人息子が商売で失敗し使い果たしたり、周囲を丸く収めるために自筆証書遺言をなかったことにしたり…。

「普通に」という世界は、人間が織りなす世界であるから破れも含めさまざまである。普通の生死を願う心性には、こうしたありのままの人間の生死に対する承認がある。そして、これを「願う」ことには、地道に背伸びせず、まっとうでありたいという想いがあるように思う。

 私も普通に生き、普通に死に、普通の葬式で送られたいと願う一人である。



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