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葬送の視点2(2002) 碑文谷創


 葬送の原点は「(死者と)別れること」にあるのだろうか、それとも「(死者を)送る」ことにあるのだろうか。
 多少図式的に言うならば、かつて葬送は「死者をあの世に送り出す」ことを主眼としてきたが、近年は「遺された者が死者と別れる」ことに主眼が移行しているようである。

「送る」ことは、死者を葬地まで関係縁者が列を組んでの野辺送り、あるいは死者に引導を渡してあの世へ導く宗教的儀礼である葬儀式、という習俗や儀礼に代表される。
「別れる」ことは、昭和初期からの告別式に端を発するが、近年の「お別れ会」の流行に端的に見てとれる。

「送る」ことから「別れる」ことへの重点の移行は、宗教的に言えば「葬儀の非宗教化(世俗化)」である。また葬儀を行う者に視点を置けば「コミュニティ」から「個人(家族)」へという「葬儀の個人化」である。

 家族の死が遺族にとって大きな出来事であることに変わりはない。ある場合には生活環境を変えることを強いる生活的危機を招くであろうし、愛する家族との死別は精神的危機であるグリーフ(悲嘆)をもたらす。
 問題はそれへの解決方法である。グリーフプロセスは葬式後も続くものであるから「解決」という言葉は正しくない。何をもって対処するかである。

 縁ありこの世に生まれ、コミュニティの中で育ち、生活を営み、死してはコミュニティに送られ、自然にあるいは浄土(天国)に還り、生者を見守るという他界観に支えられて生きていた時代であるならば、生死は摂理(人間界を超えた自然や神の流れや意思に委ねるべきこと)であるから、「他界における安心」「冥福(あの世での幸せ)」に託そうとした。

 だが、現代日本人の不幸は支えるコミュニティも失い、あの世へのイメージも失い、託すべきものを失った状態にあることである。家族分散の果てに送り出す最低の核となるべき家族すらなく、単身自らの死後を配慮しなければならない人々も大量に生み出している。

 葬送の原型は、看取りから通夜という近親者による「別れ」と、その危機の乗り越えを託す「送る」ことから成っていた。だが戦後の葬送は、宗教的世界観を基礎とすべき「送る」作業を世間的価値観に埋没させ、形態としての儀礼を優先させ、他方、その形態としての儀礼の準備のために近親者を忙殺させ、「別れ」の時間を奪い、薄くしてきた。
 今、その反省に立ち、葬送の原点が問われているのである。

 家族との死別によるグリーフプロセスへの対処という出発点に立ち戻るならば、送る先、行き先が不明ならば、まずは「別れ」を復権する必要がある。
 そしてこの別れは、今のファッションの美的センスのお別れではなく、具体的なものであるべきである。死を病床にあって看取ること、遺体に触れて接して死を確認すること、悲しみ嘆きを心の赴くままに表出すること、死者の生を自らに深く刻むことである。

 別れには支え手が必要である。血縁に頼れないのであるならば、友人が、それもなければ職業としての葬祭従事者が、あるいは行政を含むネットワークが、そして、本人や遺族が宗教的世界観に委ねたいと考えるならば宗教者が適任であることは言うまでもない。送り手としての家族が不在である場合、死後を安心して託す人がいれば自らの生を確認し、安心して旅立てるであろう。



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