トップ > 現代葬儀考 > 葬式を知らない子どもたち サイトマップ

葬送の視点6 碑文谷創


「子どもたちに毎日葬式を見せるんですよ!親の気持ちにもなってよ!」
 話し合い会場の後方から甲高く叫ぶ声がする。その声に周囲の者が頷く。続けてまた声がした。
「あそこは遊び場への通り道なのよ!」
「子どもをもつ親の身になってよ!」

 斎場建設の事前説明会の席である。予定された斎場の建設立地が道路を挟んで公園の側にあるからいけないと地元の人たちは反対する。公園は汚れを知らない子どもたちが自由にのびのびと遊ぶ場所である。その横を陰鬱な顔をした黒い服の大人たちが出入するのは教育上よろしくないと言うのだ。子どもが反対するのではない。そうなると子どもはのびのびと育たないだろうからと親が反対する。
 別の斎場建設反対運動では立地が小学校の通学路にあるという反対があった。

 斎場反対運動に子どもが出しに使われるようになったのはいつからのことだろう。
 考えてみれば斎場反対運動だけではない。大人が何かに反対するときにはよく子どもを出しにする。嫌なこと、汚いことは純真な子どもの成長に害がある。自分からは何も言えない子どもを「代弁」して、子どもを「守ろう」として大人は反対する。
 ある反対運動を取材したとき、そのリーダーは「結婚式場ならいいのにね」とポツリと言った。結婚式場ならよくて葬式をする斎場ならよくないのか。そんな理屈はどこにあるというのだろうか。

 葬儀はけっして楽しいものではない。家族にとっては辛い、悲しい出来事である。何せ家族を喪失するのであるから、たいへんなストレスであることは言うまでもない。
 しかし、その悲しむ姿は悪いものではないだろう。また、醜いものでもないだろう。人間が悲しみ、傷むのは、愛する存在を喪ったからであり、人間が愛するということを知るものである以上、喪う悲しみは避け得ないことなのである。
 愛は快楽だけをもたらすものではない。辛い悲しみもまたもたらすのだ。あるいはこうも言えるだろう。辛さ、悲しさ、傷みを伴わない愛は存在しないと。

 自分の個人的な体験を思い起こしても、人は大切なことを喪い、大切な存在と別れ、傷み、苦しみを体験して成長するのだと言えるように思う。
 幼いながらも人間は喪失、怒り、悲しみを体験する。そうした体験に出遭ったときに感情表出するのは悪いことではない。大切にしていた玩具を失ったとき、子どもは自分の世界の一部を失ったのであり、その嘆きは深い。それを代替の玩具を与えることで大人はごまかそうとするが、それはけっして子どもにとっていいことではない。

 子どもには未来があるという。確かにそうだ。しかしその未来はけっしてバラ色ばかりでないことも確かなことだ。赤もピンクもオレンジもあるだろうが灰色も黒もある。
 赤やピンクだけだと育った子どもは他人の悲しみ、苦しみ、挫折、失敗に共感を寄せることができるだろうか。知らずに残酷な言葉や振る舞いを他人に浴びせるような人間にならないだろうか。
 心豊かな人間というのは悲しみ、傷みもまた知る人間のことだろう。子どもとその将来を大人は侮ってはいけない。



Copyright © 2005 表現文化社