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現代葬儀考56号(2000.3) 碑文谷創


 佐々木宏幹氏(駒沢大学教授・宗教人類学)が、『中外日報』2月17日号で「揺らぐ葬祭仏教文化の問題点」と題して書いている。
 日本では、9割を超える人が仏教で葬式をし、一般の人々の仏教への関心理由の最大のものは葬祭であり、寺院の成立・経営の社会・経済基盤は葬祭関連行事にある。「少なくとも伝統教団においては、僧俗共通の生活様式の型が葬祭であることは疑いえまい」とし、これを「葬祭仏教文化」と名づけている。

 ではこれまで葬祭仏教文化を支えてきた「僧俗共通の生活様式」とは何なのだろうか。
「日本人の大多数(約95%)が仏僧の儀礼によって死者は『この世』から『あの世』に無事に移行するとの捉え方(慣行)に従って行動し、他方仏僧はこうした人びとの願いに応じ、仏教的あるいは宗門(派)的意味を付した儀礼により、死者をあの世(浄土・仏界・仏国土)に移行させうるとの宗教観(感)に立って行動するという、僧俗の相互関係がそれ(型)である」

 氏は、これは「通過儀礼の日本版」であるとし、「葬祭は日本人の宗教生活にとって実に重要な意味をもつ」と指摘する。
「なぜなら一連の葬祭儀礼によって死者は仏教教理上の究極的存在である『仏』と関係づけられ、『ホトケ』として人びとを守護する守護仏的な性格を帯び、人びとの信仰対象に化すからである」
 本来は「仏」(覚者)と死者とは無関係なのに、日本では共に「ホトケ」と呼ばれる。「これは日本仏教史上の画期的な出来事」であり、死者を「ホトケ」=仏と位置づけたことで、仏教が庶民の信仰を独占することができたと論ずる。
 それゆえ「死者をホトケに移行させる葬祭の専門家として、仏僧は長い間不可欠の存在と見なされ、みずからの生活と寺門経営の資の多くを葬祭の執行に負うてきた」のであり、これは「人の生前に人生苦を解決すべく仏道を行ずる」本来の仏教とは異なるものの、葬祭仏教文化というのは日本人が自ら選びとったものだというのだ。

 だが、ここにきて葬祭仏教文化に揺らぎが生じてきているというのだ。
 それは「合理主義、科学主義の席巻する現代にあって」(僧俗合わせて)「葬祭の核心的対象である死者と死者が赴く来世についてのイメージが風化し弱体化してきているのではないか」という深刻な事態が発生しているように感じられるからである。

 氏は強調して言う。
「葬祭は死者を来世に移し安定させる営みを通じて、残された者がなぎさめられる儀礼」であり、「死後の人格をイメージできず、あの世も感覚できないのなら葬祭のリアリティは喪失するはずである」と。
 氏は、このままでは無宗教葬や自然葬がいよいよ増大すると危惧し、「葬祭仏教文化は今、その存在意義を問われ始めている」と結んでいる。

 大村英昭氏(大阪大学教授・宗教社会学)も「仏=ホトケ=死者」について好んで論じる。ここから戒名(法名)問題も見えてくるところがある。
 戒名(法名)は「僧となることによって授与される名前」であり、これが在家にも与えられることから、今では「仏弟子となることによって与えられる名前」と広く解釈される。もっとも、かつては「仏弟子となる=出家僧となる」ことだった。今は僧侶も在俗である。

 だが一般の人びとの理解は異なる。「死者に授けられる名前=ホトケとなった人の名前」である。
 かつての観念で言えば「死者の霊は祟る」のである。葬儀や葬儀後の儀礼を通じて浄化し、供養し、ホトケの仲間入りさせ(授戒・引導)なければならない。ここで見られるのは死に対する恐れの感情であり、その克服の論理である。
 あるいは「死ぬ=あの世へ往生する=ホトケの仲間になる」のだから死は恐れることはない、と死を自然に受容する態度を促すことにもなる。
 死への恐怖と死の受容、その双方においてホトケとなることがキーワードになっている。

 考えれば考えるほど、日本仏教が発明した「死者→ホトケ→仏」とは見事な展開である。
 生前どんなであれ「死者はもうホトケなのだから」と、死者を救済し、全ての死者の平等性、全ての死者=遺体の尊厳を保証するものともなる。
 近世の初期、仏僧たちが民衆の中に入っていったとき、民衆に霊(人格)などないと言われていたのに対し、民衆もホトケになれるとして葬祭に携わり、民衆の心を強くとらえた事情がよく見えてくるようである。
 確かに「来世のイメージ」は現代人から遠くなり、葬儀が死者をホトケとして来世に導く重要なものだという認識、感覚はひましに弱まっている。
 高齢社会となり、死の恐怖が見えにくくなっている。また例外となった若くしての死や突然の死に対してはパニックとなり、悲嘆が露出する傾向にある。この前にはホトケや来世が救済する力をもたない。高齢者にしても、かつてのようには来世のイメージをもちにくいので、むしろ死の受容が難しくなってきているところがある。

 現代文明の興隆が葬祭仏教文化を衰退をもたらし、葬祭仏教文化に衰退が今日の死の状況を難しくしている。
 佐々木氏は無宗教葬や自然葬(つまり散骨)を葬祭仏教文化の衰退の徴候と見ているようである。だが、寺院経営を難しくさせる点では問題であろうが、問題はそんなところにはない。
 死が危機であるという感覚は薄くなっても、死が依然として危機であることに変化はない。問題は、死に対処する観念が拡散することで、個別的には、死がある意味で孤立化し狂暴化し冷淡化されてきていることである。

 戒名料騒動でも、今やここにあるのは消費者問題でしかない。死や葬儀が消費者問題となってきたのは、タブーからの解放もあるが、死の露出であり拡散であるという面がある。
 仏教教団の行方は別とし、葬祭仏教文化の衰退は、新しい課題を投げかけざるを得ない。はたして新しい革袋を用意できるのだろうか。 



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