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現代葬儀考 46号 碑文谷創


「葬儀はいらない!」という大きなタイトル文字が新聞を飾る時代である。眉を顰めて嘆く人もいれば同感の相槌を打つ人もいる。もちろん全く関心を示さない人もまたいることは事実である。
 酒場で話題になると(そんな酒場なんてない、と言われそうだが、私の行きつけの酒場では、実際に葬儀に関する話題が受けるのだ)、大きく二手に分かれる。「葬儀肯定派」と「葬儀否定派」とにである。
「葬儀否定派」と書くとラディカルに思えるが、この人たちには心優しいロマンティストが多い。

家族想いで友人が多いA氏は夢見るように呟いた。
「どこか知らない土地を旅行して、深い森の中でひっそりと誰にも知られず死ぬなんていいな」
現代の死は「病院での死」がほとんどである。これは嫌だ。死期を察すると旅に出て、深い森に立ち入って、静かに、そしてここが大切なところだが、苦しまずに、眠るがごとくこの世を去りたいとA氏は言うのだ。
 今、終末期には病院を出て「家で死にたい」とする人が多い。自分の見慣れた風景を楽しみ、愛する家族に囲まれて、と願う。苦痛を緩和できるならば、という条件がつくことが多い。
 だが、A氏に言わせると「それはわがまま」である。家族に大迷惑をかけるからだ。
「本人はいいさ。あの無機質の病室にいてわがままできないでいるのと比べれば天国さ。ついでに惚けてしまっていれば最高だよ。でも家族のことを考えたらできない」

 ここになるとA氏の言葉は毅然としてくる。
「終末期の患者を抱えてだよ。家族は病人から目を離すこともできない。買い物だってままならないじゃないか。本人はいいだろうが周囲が鬱屈してしまいそうだ。もうその頃になればカミさんだって立派な老齢者だ。疲れてしまうに決まっている。介護疲れで神経が病んで『私と一緒に死んで』と夜中に無理心中だってしかけられかねない。俺はどっちみち死ぬ身だからいいさ。でもカミさんまで苦しめて、死なすことはないじゃないか」

「子供だって?いるよ。でも子供たちは別に世帯をもっている。子育てもあり、俺たちとは別の生活をしているんだ。何も俺のわがままの犠牲になることはないじゃないか」
「息子と一緒に生活したら面倒見てくれるのは嫁さんになるよな。誰が喜んで汚ねー爺の下の世話をするかってんだ。こっちはわがままだし、歳を重ねるごとに自分がこれまでの生活スタイルを変えられなくなるというのがわかるよ。今さら若い者の指図は受けたくないよな。力は向こうが強いから、強制的に支配されることになりかねない。
 息子も嫁さんも優しくないということではないんだ。今でもときどき家の手伝いにきてくれるし、気づかってくれるよ。でも一緒に住むということは違うんだ。しかも死を目前にした爺だぜ。向こうだってノイローゼになるだろうし、なって不思議じゃないよね」
「娘?娘はいいよ。でも娘には苦労かけたくない。娘の家庭もあるしね。頼めば娘のことだ。嫌だとは言わないさ。遠慮じゃないんだ。娘がかわいんだよ」
「俺の葬式なんて必要ないんだ。そのために家族が大変な苦労をすることを考えたら、もう嫌になる。俺はもう死んでいるんだから、何もしてくれる必要なんてないし、盛大にやってくれたからって嬉しいわけではないんだ。むしろ恥ずかしいという気持ちがある。俺の人生なんてたいしたもんじゃない。最期に本人が照れるようなことをしてほしくないね」

長男夫婦と同居していた男性がいた。彼は先年妻を喪っていた。病院嫌いで、医師がいくら入院を勧めても頑として入院を拒み続けていた。ある日、彼は突然倒れ、救急車で入院。危険もあって個室に入れられた。その病院は新しく、病室には絵もかかり、看護婦をはじめとして温かな雰囲気に包まれていた。
 ある日、彼が長男を呼んだ。長男は父親が自宅に帰りたいと言いだすのではないかと惧れながら父に会った。父親は一冊の貯金通帳を息子に示し、頼んだ。
「最後の贅沢をさせてほしい。このまま最期まで個室に置いてくれ」
 家族がいくら親身に面倒を見てくれたとしても、全てに行き届くわけではない。また、遠慮もある。病院では枕元のボタンを押すだけで夜中でも看護婦が来てくれる。何より父親が気に入ったのは若い看護婦が笑顔を絶やさず、優しいことだ。「でも病院でも相部屋は嫌だ。他人に気をつかいたくない。個室にいさせてほしい。個室は高いのは知っている。でも、あまり長くないだろう。そのくらいの贅沢する費用はこの貯金だけで間に合うと思う」
 父親は、子供たちに残すお金とは別に何かのときの必要にと分けて貯めておいた通帳を差し出した。そして彼はその通帳の半分も費やすことなく、静かにその生涯を閉じた。彼の最期には家族、孫が枕元に集まっていた。

人生の終末期を迎えるのに「自宅がいい」「病院がいい」というのは単純な話ではない。
 母親を看病していた娘夫婦は、老人病院に入院を余儀なくされた母親が、少しの間に言葉を失い、寝たきりになったのを知って愕然とした。病院では母親一人のために看護が尽くされなかったからだ。
 かと思うと反対の例もある。地方の田舎町ではまだまだ子供が親の介護をすべきという風潮が強い。息子夫婦は惚けた母親を老人病院から奪うように退院させた。病院では関係者ができるだけ言葉をかけるようにしていた。自宅に帰った母親は自室に監禁されるように放置され、あっと言う間に言葉と表情を失ってしまった。

 A氏の話に戻ろう。
 A氏は家族の介護に頼りたくないし、病院にも入りたくない。自由と自立を標榜してきた身としては、最期は知らない土地の森の中で、となる。
 だがこれは難しい。至難の業である。森の中で苦痛もなく死ねるという保証はない。しかし、現実的には餓死するのだろう。とすると体力の衰えと共にあまり苦しまずに死ねるかもしれない。
 この夢を実現するためには、そこまで独り旅する体力のあるうちであり、その時期を逃せば旅に出ることさえできない。行ってもかっこうの森があるか、居住地の近くであれば、死ぬ前に発見され、地域の人に迷惑がかかるかも知れない。死体の腐臭が人びとに迷惑をかけるかも知れない。警察沙汰は家族の心労もまた深くする。
 まずは行き先を告げずに出かけた後、家族は心配するだろう。その心労はあまりあるものがある。本人の意図が文字どおりに実現すると、死体も発見されないのだから、家族は長年にわたってA氏の身を心配し続けることになる。本人の死は現実となっても家族にとっては死はいつまでも現実化しないことになる。これは家族にとって精神的地獄である。
 いずれにしても、家族に迷惑をかけないで死ぬことは不可能だ、と知ったほうがよい。人間は独りで死の瞬間を迎えることはできるが、また、余儀なくされることは多いが、その死は家族を含めた周囲の者たちに全く無関係にあることは難しい。生前無関係でなければあり得ない。厳密には孤島で存在を認識されずに生きていて、死もまた認識されないというような場合を除いてである。
 独り暮らしであっても、その死後、近隣住民、民生委員、役場、警察が関係せざるを得ない。行旅死亡人の場合には死体の存する地方行政の長が火葬その他を行うことになっている。火葬もまた葬儀の一部であるから、現実には全く葬儀をされない自由はない。

酒場の「葬儀肯定派」にしても、自分の葬儀をそれほど積極的に肯定しているわけではない。
 B氏は、A氏のロマンに共感しながらも、もうちょっとリアリストであったがために「葬儀肯定派」になっている。
「親父が死んだときも、親父は『葬式なんかしなくていい』と言っていたんだ。確かに家族だけで火葬してやるという方法もあったと思うよ。でも俺としては何か淋しかったんだ。親父は文字どおり言っていたのかもしれないが、俺にはそうは聞こえなかった。遠慮が感じられたんだ。介護で迷惑をかけて、そのうえに葬式の面倒まで見させるのは忍びない、という。俺も親父のためにそんな大きな葬式はしたわけではない。親父を知っている人だけに集まってもらってやった」
「そのとき大変だったかって?大変でなかったと言ったら嘘になる。でも迷惑をかけられたという意識はなかったね。親父の葬式を出すというのは、俺たち家族の務めのようなものだと思った。親父は俺の家族だよ。自分が家族の務めをしなかったら親父と家族でなくなるような気がした。絆というやつだね。最期に絆が切れるというのは何とも耐えられなかったんだね」
「俺は親父ほど家族に愛されているという自信がないがね。でも『葬式するな』と言うとギリギリのところで家族が困ると思うんだ。関係がうまく整理されないんじゃないかな」
「俺だって仰々しい葬式をやってもらいたいとは思っていないよ。俺は家族のことを考えたら病院で死ぬのがいちばん迷惑かからないと思うし、別に個室でなくたっていいよ。そんなに蓄えがあるわけじゃない。残る奴のほうが大変なんだから、金は死ぬ自分、死んだ自分のためよりも残った奴がつかうのがいちばん。でも全くつかわないというのは現実的ではない。俺も親父が『つかわなくていい』と言うのにある程度はつかった。そうしたかったんだ。迷惑って言うがね、多少の迷惑がないと残ったほうの気持ちが晴れないやね」

 配偶者を病気で亡くした男性C氏もまた「葬式肯定派」の一人だ。
「入院も長かったから、世話も費用もたいへんだった。何か若いときに世話をやかせた賠償しているみたいだったね。葬式?よくわからなかったから心配ばかりしていた。しかし友人たちもかけつけてくれてね、助かった。ああいう葬式がなければ自分の気持ちが整理つかなかったろうね。実際のところ、葬式の間はボーっとしていたと思うよ。でも、葬式やらなかったらと考えると、やってよかったと思っている」
「墓も買った。人間に霊があったとして、確かにあんな狭いところに閉じ込められたら嫌だと思うよ。広々とした自然に還す方法だってあると思う。でもあれは俺と家内の繋がりを証明しているもんなんだ。盆、命日、春と秋の彼岸、そのほか理由をつけては墓に行っている。行くとね、俺が家内を忘れないというのではなくて、俺が家内に見捨てられていないと感じるんだ。死者は寛容だからね。俺が何の文句を言ってもじっと聞いてくれる。聞かざるを得ないんだから。あいつはありがた迷惑かもしれんがね」

 東京都の調査でも、自分の葬儀に対する気持ちと家族の葬儀に対する気持ちには差が出ていた。
 自分の葬式はどうでもいいが、家族に対してはそれなりのことをしてあげたいというのが公約数となる回答であった。
 また、とかく切り離して論じがちだが、終末期の迎え方と葬式の話というのは連動している。
 自分の死、自分の葬式であっても、人はこれを語るとき自分のことだけを考えているわけではない。常に他者、特に身近な家族、友人のことを意識している。家族の死、家族の葬式のことでも、家族のことだけを考えているわけではない。常に自分との関係を意識している。
 生きるも死ぬも身近な者との関係から離れてあるわけではない。したがって、この問題は関係のあり方によって大きく変わってくる。変わってきて当然なのだと思う。

 義父、義母の世話を強いられた女性のDさん。最後に義母を看取ったときにホッとしたと語る。これでやっと自分たち家族だけになった、と。
「夫は母親っ子だから、がっくりきていた様子だったわ。『母親のために』って葬式もだいぶ奮発していたわ。私は夫のしたいようにさせていた。惜しいとも思わなかった。それはいいの。でも夫は自分の母親のために心配はしたかもしれないが実際の肉体労働は私の負担だったのよ。昼間は家にいないし、義母の愚痴を聞いて嫌な想いをするのも私。義母は昔の人間だから、嫁がするのが当たり前という態度。『今は違うの』と言っても理解できないから黙っていた。よくないことは知っているんだけれども、お葬式が済んだら『終わった!』ってとびはねたくなっちゃった」
 これを批判することはできない。口だけの男としては辛いものがある。自分もまた死んだときに万歳をされるかも知れないのだ。そうならないという保証は残念ながらどこにもない。
 葬式は、場合によっては、他人との関係の清算の儀式にもなる。きれいごとだけを語ってもしょうがない。それぞれの人間関係を露すからだ。そういう面を含めて葬式をする意味を考える必要があるだろう。 



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