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葬送の視点11 碑文谷創


 葬儀が揺らいでいる。この状況は95年くらいから始まり、00年以降顕著になっているように思える。
 極端なのは「葬式をしない遺族」の出現である。かつても葬式をしない遺族はいた。しかしそれは極めて特殊なケースであったり、あるいは経済的理由等から葬式を出せない遺族の場合であった。まとめるなら特殊な確信的非葬式派か消極的非葬式派であった。

 葬式をしないには多様な個別の事情があることだろう。表面的に葬式をしないからといって皆同じものとして扱うことは不当だろう。葬式を担う遺族が、家族というものの大きな変化を受け、その主体がかなり曖昧なものになってきているという事情も反映しているだろう。日本では急激に家族が分散・解体を続けているのだから、家族の一部である遺族にも分散・解体の憂き目にあっているケースはけっして少なくないだろう。そうした事情を抱え、一人暮らしの高齢者が増加し、弔いの主体たるべき遺族が不在というケースもまた少なくないだろう。

 だがいま、その中に出現しているのに、名づけるならば「無意識的非葬式派」のような存在もあるように思える。無意識的非葬式派というのは、家族が死んだといっても葬式をすることに積極的意味を見出せず、さりとて積極的に否定するわけではなく、そもそも葬式をすべきかしないべきか悩んだりせず、葬式を出す動機がないゆえに単にしないだけの遺族を言う。

 これと家族葬支持派とは違う。家族葬支持派には、社会的関係を犠牲にしても家族のつながりを重視し、家族が送るということを積極的に考えている人々が多い。惰性で、世間と摩擦を回避するために「普通の葬式」を選択している遺族よりも、葬式に対する態度は積極的である人々が多いように見受けられる。葬儀に対して関心の強い層には、家族葬支持者が一般に比べはるかに多いようだ。
 家族葬支持派は世間の規範には意思的に抵抗しているが、無意識的非葬式派は世間の規範そのものに無関心であるように思える。
 無意識的非葬式派に言えることは、家族である死者への関心の低さである。死者の存在感が遺族の間で希薄なのである。

 葬式とはかけがえのないいのちが喪われたことへの悼みの表明である。死者のいのちがかけがえのないものであったという認容である。あるいは死者のいのちを引き継ぐということである。
 死者の存在が息づいているのが葬式の時空間なのである。
 無意識的非葬式派の遺族には、肝心の死者が、物理的には存在するが、心的には極めて存在感が薄いという特徴があるように思えるのだ。

 私は葬式の形態の変化を嘆いているのではない。一般的な意味で葬式をしなくとも、そこに死者を想う人間が一人いれば、葬式は確かに存在していると言い切れる。形態はどうであれ、その一人の胸のうちでは確かに葬式が営まれているのだ。だから私はそれを非難も批判もしない。するべきでもないだろう。
 嘆くのはこの世に存在を切り捨てられた死者がいることであり、切り捨てて傷みを覚えない生者がいることである。これは不幸である。



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