トップ > 目次 > 葬儀断章 2007.9〜 サイトマップ

碑文谷創
2015.5 東日本大震災
あの時
私は激しく揺れるなか、必死に本棚を支えていた。もはや本が飛び出すのは仕方がなかった。
本棚が崩れて、倒れるのを防いだ。

でも、それから約1時間後、テレビの映像にはとんでもない光景があった。
大量の水が凄まじい勢いで、野畑を蹂躙し、人も車も呑みこんでいく光景だ。
夜になると、私が見知っている気仙沼の街が激しく燃えていた。

通りには車が溢れ、多数の人々が、電車が止まっているにもかかわらず、家路を徒歩で向かう姿があったが、それすら日常の光景と思えるほど、映像が伝える光景は幻のごとく凄惨で、暴力的であった。

但し、この光景は東京でテレビが伝えたが、東北の現地では、停電によって見ることができなくて、一部の自動車のテレビで見た人がいるだけだった。
現地は深い闇が覆っていた、という。

多くの人のいのちを大津波が呑みこみ、まだ2千人を超える多数が行方不明だ。
翌日以降に明らかになったのは、福島の原子力発電所が致命的な大事故となったことだ。


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2015.3 祖母を看取る
外は冷たい雨が激しく降っていた。
控室では叔父と叔母が激しく言い合っていた。
長男である父は二人の諍いを止めようともせず、ぼーっと座っていた。
「お父さん、止めてよ」
と言っても、父は顔を振るばかりだった。
居たたまれず私は火葬場の通路に逃げ出してきていた。

私は「おばあちゃん子」であった。
子どもの頃、母や父に叱られると、はなれに住む祖母のところに行って、祖母の編み物をする姿を見ていた。
「また、叱られたのかい」
と優しく声をかけ、しかし理由はけっして問わなかった。祖母の編んだ物は多くの場合、私への贈り物になった。

祖母は、病気が悪化しても、入院を勧める叔父や叔母の声を無視して、はなれで寝ていた。
叔父、叔母が帰ると、父が祖母のところに顔を出し、黙って腕や脚をさすっていた。

祖母は、父と母、そして私が見守るなか、激しく息を数回した後、静かになった。父は黙って祖母の脚をさすり続けていた。
泣くでもなく、あくまでも静かに。
その夜は父が祖母の横に布団を敷き、寝た。

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2015.1 3人の叔父の死
「叔父」と身近に言えるのは3人だ。ほんとうは母方にもう1人、父方に2人いる。
母方の、知ることのなかった叔父は、私が誕生する直前、フィリピンのどこかで戦死した。20代での、その時代、よくあった死の一つであった。「石ころだけが帰ってきた」と母が老いて認知症になっても、そのことは最期まで恨んでいた。
父方の2人の叔父は、2人とも自死した。
1人は20を境に死んだ。
祖母が死ぬまで悔やんでいた。だが事情については固く口を閉ざしていた。
もう1人は「行方不明」と聞かされて育った。ある時、末の叔父を訪ねてきて、1週間ほどいたが、借りた物は全部置いて、明け方出て行った。
次にその叔父の消息を知ったのは2番目の叔父に池袋の警察から電話があったことだ。いわゆる「行旅死亡人」調査で2番目の叔父に行き着いた。今から40年くらい前のことだ。
私は時々、私の知ることのなかった3人の叔父の死を妄想したものだ。彼らが生きた年限を私ははるかに超えたが、その妄想はいまだに心の底にある。
生前をよく知る3人の叔父は、すでに皆他界したが、懐かしく思うのだが、生前を知ることのできなかった3人の叔父を想う時は心がギーギーと軋むのだ。

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2014.11 後輩の葬儀
後輩の元伴侶であった女性から電話がかかってきた。
「今、○○署にいます」
後輩が、彼女と離婚後に一人暮らしをしていることは知っていた。それは彼女とたまたま会って知ったことなのだが。
「彼が死後推定2週間後に発見されて、今警察で引き取りの手続きをしています」
彼女は離婚したから本人との関係はないのだが、2人の子どもたちの父親ということには変わりがない。そのため彼の最も近い身寄りが子どもたちだった。
彼の両親もすでに死亡していた。
私は急いで葬儀社を手配した。
その地区では珍しいことではないらしく、葬儀社は粛々と仕事を進めてくれた。
火葬場で彼女と子どもたちに会って、葬儀社の担当者とも打ち合わせた。
こういうときの対応は事務的に限る。余計な話をすると感情があらぬ方向へ飛びかねない。
担当者はそういう意味では不足も余分も一切なかった。
枕元の手帳が2週間前で空白になっていたこと、電話のところまで這っていこうとした形で倒れていたこと、それが全情報であった。
彼の死と無関係だろうが、その晩、私は腸閉塞(イレウス)で入院した。

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2014.9 悔い
彼女が死んだらしい、という噂を聞いた。
その噂を聞いた夜、私は不安と動揺で眠れなかった。
私たちは同じ高校の教師として知り合った。もう半世紀前で、二人とも独身だった。
お互いに結婚して姓も変わり、彼女が九州、私が東北と住む環境も変わった。
だが付き合いは続いていた。
彼女が仙台に来ると、私の家に泊まり、私も九州の彼女の家を旅の途中に何度か訪ねた。
一緒に海外旅行にも行った。
だが、2年前、ふとしたことで疎遠になった。
ある時、電話で話していて、その時どうにも感情が噛み合わないのを感じた。
彼女も同様だったようだ。
同じような感覚を共有しているつもりであったから、それは私たちには「事件」だった。
以来、二人とも自分から連絡することを止めていた。
年賀状だけは交換した。私のも彼女のも印刷されたもので、添え書きはしなかった。
8月、彼女の弟さんから手紙がきて、詳しい彼女の死についての報告が書かれていた。
噂は事実だったのだ。
交流を途絶した直後から彼女は終末期に入ったことになる。彼女の苦悩を共有できなかった私は何だったのだろう。
しかし戻れない。関係修復の機会は失われた。

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2014.7 父と僕
父は晩年、よく「危篤だ」と自分で電話をかけてきた。兄には別な日に「危篤」になったようだ。
要は「顔を見せろ」ということで、行くと息子の顔をまじまじとみつめ、「僕が死んだらどうするか言ってみろ」と言うのだ。自分の意思が息子に伝わっているか、確認をするのだ。
危篤になった時のことから始まり、葬式や納骨、そして自分の書斎の本の行く末まで、全部を、私が父からそれまで何度も聞かされたとおりに言うと、「それで頼む」と言った。
知り合いから電話があると、「死んでから葬式に来てもらうより、今の生きているうちに会いに来てくれ」と見舞いを催促する。
父はあらたまった席では「私」と言ったが、少し気楽な関係では自分のことを終生「僕」と言っていた。 その父が死んでから14年。十三回忌は2年前にしなければいけなかった計算だ。生きていれば百歳を超えている。
死後5年目あたりから、父のことは「懐かしく」感じるようになったが、いまだに父の思い出は明徴である。
父の葬儀でとり乱しながら、私は必死に父に語りかけていたものだった。
「私は、僕は、あなたの息子でした」と。
その言葉は、14年後の今も、私の中では少しも色あせていない。

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2014.5 危篤
携帯電話が鳴った。22時15分。
「高倉和夫さんですね。林病院の看護師の及川と申します。お母様の芳子さんが危篤になられましたのでご連絡します」 病院に車を走らせた。
ひどく落ち着いている自分がいた。
母は4人部屋から個室に動かされていた。
「高倉さんですね。こちらへどうぞ」
病室では若い医師がモニターを見ていた。というより私が来るのを待っていたかのようだ。モニターの線はもうなだらかであった。
「22時55分、ご臨終です」と医師は言い、立って私に頭を下げた。
母の手を握ってみたが、ダラーンとしていた。もはや生体反応はない。
「よろしいですか?」と、看護師が言い、頷くと点滴器具などを片づけ始めた。作業は事務的に淡々と進んだ。
母は地下の霊安室に移された。
看護師が「お決まりでなければ葬儀社を紹介しましょうか」と、言ってくれたので頼んだ。
母が入院し、認知症になってから4年と3カ月が経っていた。
母の表情はどんどん変化していった。ついには息子の顔も認識しなくなった。それに私の気持ちが追いつかなかった。「終わった」という思いと、入院前の溌剌とした母の姿が頭の中で交錯していた。

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2014.3 最後の時間
そこには痩せこけて、口を開け、固まるように寝ていた人がいた。
思わず引き返し、ドアの横にある名前を確認した。
間違いなかった。姉の名がそこに書かれ、ベッドにも書かれていた。
声をかけても反応しない。
1週間前に、間違って携帯電話を押し、姉につながった。すでに5度目の入院をしていた姉だった。少し力は弱かったものの受け答えはしっかりしていた。
先に来た兄からの電話で、著しく変貌していると聞かされてはいたが、ここまでとは思わなかった。
かろうじて呼吸する様が喉で確認できるが、まるで死後硬直の様に近い。
死ぬということは大変なことだ。
まさに死の世界と生の世界とを行ったり来たりしているようだ。
朝から傍にても何の反応も示さないので、夕方、諦めて帰ろうとして声をかけたら目が開いた。手が動き、声を発するが言葉にならない。目は確かに私の姿を追っている。
だが、しばらくすると目も固く閉じられ、深い昏睡に再び入った。
これが生きている姉に会う最後の時間だろう、と思い、立ったまま、しばらく手をさすり続けた。

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2014.1 母の葬式
「葬式をするって!」
兄が怒鳴った。
「どれだけ苦労したって言うんだ。これでやっとせいせいしたっていうのに」
兄が疲れた顔で言った。
兄の言うこともわからないではない。この10年、母は昔の穏やかな母ではなかった。認知症になった後は、ちょっとしたことで「痛い」と大声で叫び、「お前たちは私を殺そうとしている」と被害妄想にかかり、近づくだけで「怖いよ」と喚き、退く。また、よく怒鳴った。
私たち兄妹はすっかり消耗してしまった。
「でも、この10年の母さんは病気だったのよ、ほんとうの母さんではなかったのよ。せめてお葬式くらいやってやろうよ」
と私は必死に兄に頼んだ。
渋々であったが、やっと兄は頷いてくれた。
母の顔は穏やかさを取り戻し、静かだった。
10年の喧騒がまるで嘘だったかのように。
お寺に連絡すると、住職はすぐに駆けつけてくれた。
「いい顔なさっている。ご家族もこの10年たいへんでしたね。よく尽くされました」
住職の労いの言葉に、兄は泣き崩れて叫ぶように頼んだ。
「お願いします、お願いします…」
私も兄と一緒に頭を畳に押しつけていた。
幼い日、両手に私たち兄妹の手を握り微笑んでいた母の姿が脳裏に立ち上ってきた。
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2013.11 三回忌
まもなく三回忌がくる。
もう三回忌か、まだ三回忌なのか、感情として、いずれもしっくりこない。
喪ったことがもたらす悲しみを時間で量ることに違和感があるからだろう。
妹の眼が再び開くことがない、と知った時、私は膝が折れて座り込んでしまった。
「空虚」とは、こういう気持ちを言うのだろう。何もないのだ。
少なくとも妹の時間は停まった。
しばらくは呆けていたのだろう。
「よろしいですか」という、看護師の言葉が意識を呼び起こした。
「お水をご用意しました」と、水の入った湯呑茶碗と綿棒をなぜか2本のせたおぼんを差し出した。
水を含ませて妹の唇を口紅を塗るようにゆっくりと綿棒で濡らした。
何かをしてやるという気持ちではなかった。何にもならない、何にも変わらない、という思いが胸を締めつけ、痛いのだ。
「ありがとうございます。もう結構です」と言っておぼんを返した。
部屋から出て、廊下の椅子に腰を下ろした。
「終わった」と思った。
「でも妹はこれ以上苦しまなくともいいのだ」という安堵感もあった。
あの日から何も変わっていない自分がいた。
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2013.9 家族とは
「家族」というのは不思議なものだ。
多くの人にとっては、疑いようのない濃い人間関係なのだろう。
しかし、それ故、強い反発と憎悪の対象にもなり得る。
また、家族を私物化してしまうこともある。ほとんどが無意識のうちにだ。それがいつのまにか、相手への肉体的、精神的暴力となったりする。だが、それを意識化することは極めて困難である。
あるいは「関係を断つ」ことには相当の覚悟が強いられたり、いったん離れると、再度の関係づけは難しい。
「犯罪」というのは、「外から来る」と漠然と思っていることが多いが、実はかなりの確率で家族や親戚といった近い距離で発生している。そのほとんどは「家族」や「親戚」という関係になければ発生はしなかっただろうことである。
「家族」と言うと、それぞれがわかった気になることが厄介である。実はその関係は多様で、濃淡も異なるのだが、自分の家族関係に引き寄せて考えてしまいがちだからである。
「家族」という語は、認識よりも体験に深く影響される語なのだろう。
死別だけではなく、生きて家族を喪失することもある。それもぼんやりと。しかし、確実に深いところで。
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2013.7 同級生の死
同級生からの連絡が頻繁にくるようになったのはあまりいいことではない。
この2年間で5人死亡。前後の学年を入れると10人を超す。
人口動態統計では女性が男性より一般的に長生きすることになっているが、わが同級生では半々、この2年に限れば女性の死亡のほうが多い。健康に人一倍気をつかっていた奴でさえ死んだ。
周囲の者も「死んだ」ということにはもう驚かなくなっている。
寂寥感は充分にある。しかし、「あいつもか」という感覚だ。そして「残された自分」がいることに気づき、複雑な想いがする。
「残された」という感覚は「おいてけぼり」をくったような寂しさに近い。
夏休みに入ると、街に子どもたちの姿が目立つ。駅の改札口付近で子ども同士がふざけあって走り回っている。
付き添う親は「やめなさい」と叱るが、周囲の空気は和やかだ。
見ている私は、自然にうれしい気持ちに包まれる。子どものいる風景は横切るだけで得した気持ちになる。
子どもは存在自体が「未来」だ。
だが、子どもの未来が明るいかどうかは「わからない」としか言いようがない。
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2013.5 がん
72歳になる姉からメールがあり、私より5歳下の従妹ががんの終末期にあるという。
急いで従妹の夫Tに電話すると「非常に危険な状態なので明日来てくれないか」という。
入院していたが、本人が家に戻るというので無理を言って帰宅したという。
医師からは文書で「患者さんの意思を尊重したもので、退院は病院が勧めたものでも、いのちを保証するものでもありません」とあった。
数日後、痛みが酷いので入院、すぐ続いて「昏睡状態に入った」と連絡がきた。
今度は病院に見舞う。前日息子が来たことがきっかけで昏睡状態を脱していた。でもほとんど眠っている。モルヒネでの痛みのコントロール以外の対処はない。
手を握り付き添うTが時折涙ぐむ。その時だけはっきりした口調で「泣かなくていいよ」と言い、Tの顔を撫でる。
数日後、姉からメールがあった。
「40年ぶりにがんが再発」とのこと。
聞いて呆けて嗤うしかなかった。
姉は息子を産んだ直後乳がんに。1年後再発、と聞いた時の驚愕はいまでも生々しい。今度は大腸、リンパ節にも入り、肝臓に大きな腫瘍が約10個、手術は無理という。
98歳の母を送ったと思ったら、間髪入れず、次の世代が死に直面することになる。従兄の一人は20年前に60を前にすでに死んでいる。
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2013.3 三回忌
三回忌だという。
つい2カ月ほど前の出来事のような、はたまた夢の中の出来事であったかのような…。
現実感がまるでないのだ。
心を裂かれた傷みはまだ癒えることはない。
でも、癒える必要はないのだ、と思う。
この傷みこそあなたの残り香なのだから。
この傷みがなくなったら、あなたが私の手の届かない先に行ってしまったことになるから。
どうか、私の心を傷ませ続けてください。
「時間が解決してくれる。いや時間しか解決してくれない」と人は言う。
それは何と残酷なことだろう。
時間よ、止まってほしい。
かろうじて心の傷みがあなたの不在を意識させてくれているのだから。
子どもは、ほんとうはあなたがいないと何にもできない私だと知っているので、心配してくれている。
まるで子どもが私の庇護者であるかのようだ。
あなたが私を看取ってくれるもの、と私は勝手に心で決めていた。
だから最期の枕辺であなたに遺す言葉まで決めていた。
しかし、それを伝える機会は永遠に失われた。
そしてあなたは別れの言葉も遺さずに逝ってしまった。
私の唯一の日課は朝線香の火をつけること。
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2013.1 親友の葬式で
式場に入る。遺族席に行って挨拶する。
死者の配偶者が私が来たことに驚き、腰を上げる。そして私が亡くなった彼の小学校以来の親友であることを周囲に教える。
「わざわざ、申し訳ありません…」
「いや、彼との約束だから。むしろもっと早く来るべきだったのですが」
「ちょっと顔を見てやってください。彼もSさんには会いたいでしょうから」
死後数日経っていたので、顔色は濃く沈み、筋張っていたが、面差しは穏やかだった。
「最後はずいぶん苦しんだのですが、亡くなると、すっと穏やかになって」
「奥さんが献身的に世話されましたからね。対面できてありがとうございました」
そのうち式場は人が埋まり始めていた。彼は高校教員を長くしていたから教え子や同僚とおぼしき人が30代から70代まで来ていた。
あまり長く彼を独占しておくわけにはいかない。彼のすっかり冷たくなった頭髪の生え際を撫で、別れを告げた。
彼とボランティア仲間だったという僧侶が導師となり式は進行した。読経の声にも涙が被さっているように聞こえた。
教え子たちの弔辞は、彼のユーモラスな一面も紹介して座が和んだ。
皆彼を愛していたのだ、と強く思った。少し嫉妬している自分がいた。
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2012.11 息子の不在
「若い人の葬儀は胸が痛くなる。
遺族の顔を見ると、15年前の私とそっくり。
目はときおり上げるが誰も見ていない。
宙を彷徨っている。
私は息子の不在から卒業できていない。
5年後に部屋の模様替えをしてみたが、かえって居心地が悪くなった。
息子の帽子を2つ取り出して玄関にかけてみた。ときおり触ってみるのだが、心は冷え冷えとするばかりだ。
でも帽子はもう動かせない。
運動靴も1足だけ玄関に置いたままだ。それは新品でついに足を通されなかったままだ。
娘はもうすっかり成人したが、毎朝出勤前に「お兄ちゃん、行ってきます」と仏壇にチーンと鉦を鳴らして出かける。
何か辛いことがあると、一人仏壇に向かって小声で言いつけている。
娘の心には兄は居ついたようだ。
私の心にはまだ居つかない。でも卒業できないのは私だけではない。
息子の祖母である義母がそうだ。
「私が歳をとっても生きているのはお兄ちゃんに悪い気がする。代わってあげたかった」と悔やむ。だからわが家では息子の死以来、誕生日は禁句となっている。
私たちの会話は続かない。しばらく二人で呆としている。
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2012.9 死者の尊厳
「死者の尊厳」「遺体の尊厳」…これを守ることは葬祭業に従事する者の逃れることができない課題であり、使命である。
この意味するところを自らの行動をもって示してくれたのが、東日本大震災の仮埋葬された遺体を掘り起こし、再納棺して火葬場へ送り出した若い葬祭従事者であったと思う。
当然のことであるが、死体は腐敗する。事故や災害ではバラバラになる死体もある。腐敗すると身体は溶解し、血液や体液が漏出し、腐敗臭がきつく辺りを覆う。
そうであっても、それを無条件に「尊厳ある遺体」として終始扱い、葬るための準備を丁寧に行う。その死者が誰であったかの区別もなく、等しく精一杯行う。それが「死者の尊厳」「遺体の尊厳」を守ることである。
死体を腐敗した故に疎む(いやがる、いやがって遠ざける)人は少なくない。でも人の死は放置されてはならない。どんな死体も等しく「遺体」として扱われ、葬られ、弔われる権利がある。被災地では身元不明遺体に対し特に懇ろに弔いが捧げられたという。
単独世帯が全世帯の4分の1にまで増加し、単独死、遺体の腐敗のリスクは増大している。だが発見が遅れ、腐敗した遺体を前に、その態様故に第三者が、安易に「孤独死」「孤立死」と死者を評価するような言葉を吐くことは「死者の尊厳を侵すこと」と知るべきだろう。

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2012.7 生命の火
生命の火がかすかに揺れている。
静かにろうそくの火が燃え尽きようとしているのだが、そこはかとなく保たれている。
見ているしかない。
新たにろうそくを足すでもない。
新たに何かをすることを本人が本能的に拒否しているように思えるので、その最期の生きざまを見守るしかない。
何もできないことを最初は切なく思ったのだが、本人を見ているとそれとは違う。
本人は、その消えゆくさまを楽しんでいるかのようだ。まさに遊戯をしている。
閉じた目が開くことはなく、静かに息をするのを辞めるのではないか、ほぼそのようだな、と思っていると、何ごともなかったように目を開け、たどたどしいが「おはよう」と言う。
不思議な生き物である。人間という奴は。そのすべてのいのちが人間のはからいの世界から外れている。
それがあるときは魔物に攫われるように感じられるのだが。そのいのちを左右することは誰にもできない。
宗教者にも医師にも家族にも本人にもできない。まして国にできるわけがない。
「いのちは尽きるから尊い」のではない。生も死もあることが尊いのだと思う。
周囲を見ていて、それ以外の選択肢はないのではないか、と思ってしまうのだ。

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2012.5 子連れ無理心中
こういうニュースがいちばん怖い。
しかも記事はいつも中途半端だ。そこに至った経緯を想像しようとしても何も見えてこない。
でもそのニュース記事を書いた当の記者にもそれ以上は書けなかったのだろう。警察が発表した以上の情報はないのだろう。しかし、見出しが扇情的であるのは、「自分が書かなくとも他社は書く。ならば書くしかない」と言い訳のようにも感じた。
事柄が痛切なのに、報じるほうは中途半端な姿勢で日常感覚の意識を出ていない。
でも新聞を広げた者には、その見出し以上のものが入ってきて、しばし呆然とする。
何故か知る由もないし、知って何かができるわけではない。いや、何かをしたらものすごい冒涜になるかもしれない。
ときどき
「子どもが病弱なことをこぼしていた」
「仲良く公園で遊んでいた」
などの説明が記事に付されることがあるが、わからないことは同じだ。いっそ記事にしないでくれと呻くのだが、その次には別のページをくっている自分がいる。
しかし、そんな日は一日憂鬱である。
しかし、それが家族であったら、憂鬱だけで済むはずがない。何か自分の血が酷く冷たい感じがした。

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2012.3 待合室で
私の通っている「精神科」が別館から本館の4階のつきあたりに移動する際に「メンタルヘルス科」と名前も変わった。
外科や内科は人も充満しているし、けっこう騒々しい。看護師や医師も駆けずり回っている。だが「メンタルヘルス科」がある一角はいつも静かだ。
移動して変わったのは、診察室への呼び出しが名前で呼ばれず、受付番号がポンという音で待合室の画面に表示されるようになったことだ。
隣の、腕に包帯を巻いて待っている女性は、父親とおぼしき男性と一緒だった。
「3度目だからな…」と父親がぼそっと言う。娘は「心配かけてごめんなさい」と小声で謝る。「でも気がついたらやっていたの…」
父親「しかたないさ。死にたくて、死のうとするわけがない。俺も覚悟を決めた。付き合うさ。何回でも」
娘「自分がどうかしている、ということはわかっているんだけれど…」
私にも経験があるからわかる。周囲がまったく見えなくなるのだ。死という穴蔵に吸い込まれていく感じなのだ。死ぬという覚悟も意思もそこにはなかった。
谷川を覗いていた時、偶然そこに立ち会った人に声をかけられなかったら。おそらく私は「自殺者」になっていただろう。

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2012.1 若者が町を出て行く
若者が町を出て行く。
東日本大震災は終わったのではなく、今なお進行中の出来事だ。「復興」が叫ばれるなか、町の未来を支えるはずだった、20代、30代の若者層の県外流出が止まらない。
福島では、子どもを抱えた若い家族が放射性物質による健康被害を案じて町を出て行く。妻子を避難させた仕事をもつ夫が家に単身残る例、子どもの健康への危険度に対する意見の相違から離婚する夫婦もいる。
岩手、宮城の被災地では、勤め先の工場が営業停止となり、失業保険も切れ、仕事を求めて町を去る若者が後を絶たない。
町には高齢者だけが取り残される。
大震災以前から、東北は人口流出傾向にあった地域だ。大震災は、地域に残った者まで町に留まる選択を奪った。
大津波の到来を告げ回った消防団員が犠牲となった例は少なくない。残った団員は遺体の収容、瓦礫撤去に追われた。そこで残った者まで地域を去ることを余儀なくされている。
大津波は幾多の住民のいのちを奪った。生き残った者とて、平穏な暮らしが瓦解した。
残る者、去る者、皆大きな傷を抱える。
大震災で喪われたいのちを弔う権利、余裕を遺族から奪っている。暮らしを奪われた者は全国に散って行く。
長く続く、見えない傷が拡散。「復興」という名で回復しないのは死者のいのちだけではない。
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2011.11 東日本大震災
突然、激しく床が揺れた。建物全体がゆっくり大きく横に揺れる。慌てて本棚を支える。本棚から本がドサドサと落ちる。でもそれにかまっている余裕はなかった。
経験したことのない揺れにどうすることもできず、ただ「凄い!」「危ない!」と言うだけ。
ようやく落ち着いたので外の通りを見ると、たくさんの人が出ていて上を見上げている。車も停っている。交通機関は全て停止した。
しかし、その驚きは後に次第に判明する事態に比べるとたわいもない出来事であった。
宮城県の北部、岩手県と接する栗原市が震度7であるとテレビは伝えていた。
何時だったかわからない。テレビを見ていた者が「ワーッ」と悲鳴をあげた。
テレビ画面では、水の大群が田畑や家を巻き込み、なぎ倒しながら侵食していくさまが映し出されていた。
何かとてつもないことが起こっていた。
夜、テレビでは水の上の倒壊した家屋が火に包まれている光景が映し出されていた。
「気仙沼が燃えています!」
空中から実況する記者が叫んでいた。
昔から知っている街が闇の中、燃えていた。
3月11日、瞬時にして太平洋岸の東北一帯の人、家、街、村、暮らしが壊れ、喪われた。
翌日、東電の原子力発電所が爆発。人々は住みなれた町を追われた。
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2011.9 母の初盆
厳しい日照りのなか家族4人で菩提寺に向かう。毎年欠かさない行事なのだが今年は母がいない。
昨年も厳しい夏であった。でも母は元気に先頭に立って歩いた。その母が秋の訪れと共に寝込むようになり、3カ月後に静かに逝った。だから今年の夏は母の初盆である。
本堂には100人以上の人が集まった。法要の後、住職が立って言った。
「今年もこうして皆さんにお集まりいただき、お施餓鬼を勤めることができました。今年初盆のお宅は23軒です。3月の大震災でごきょうだいを亡くされた方もおいでです。今年は震災でお亡くなりになった方々、身元不明の方々も覚えてお勤めしました。仏さまになられたということは、全てのいのちがつながっているということです。仏さまのいのちのつながりを共にいただきたいと思います」
母は戦争の時の話をよくした。
「たくさん人が死んだ。妹も日本への帰還船のなかで死んだ。栄養失調だった。その人たちはいなくなったのではなく、私のいのちに今もつながっているのよ」と。
つらい想い、悲しい想いも併せて今私たちはいのちをいただいている。
玄関先で灯を点し送り盆をした。たくさんの人たちが手を振って去る風景が心に浮かんだ。母もその妹もその中にいた。

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2011.7 妻を捜す
3月11日以降、私の胸のなかを風が吹きすさび、ときおり内部に奥が見えない空洞が広がり、心を揺さぶり続けている。
捜す。東日本大震災発生直後は、毎日遺体安置所に通って、新しい遺体を確認して回るのが日課だった。妻が見つかればと願い、でも妻ではなかったことにどこかで安堵していた。
4カ月経った今では、新しく収容される遺体は日に数体あるかないか。多少類似している遺体を見せてもらうのだが、近づくのを拒むような圧迫するような臭いのバリアが立ち込めている。鼻が殺がれ、目が窪み、遺体には生前の面影を偲べるものはない。そこにも妻はいない。
妻をあの地獄から一刻も早く救い出して火葬してやりたい、と思うのだが、妻があのように腐乱した姿で現れるのも怖い。
私の心のうちでは、笑顔が弾け、どんな苦労も笑い飛ばす、めげない、健康そのものの妻の姿だけがある。
妻は、あの大津波に攫われ、太平洋の大海原に漂い、浄土に旅立った、と思いたい。そして頼りない夫と子どもたちをいつも見守ってくれている、と思いたい。
遺体が発見されなければ、妻の死の事実を示すものがない。申述書を書いて死亡届を出す、というのは手ずから妻を殺す行為にも思え、躊躇う。今夜の食事当番は次男。いつものように母の場所にも焼き魚を置いていた。
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2011.5 死の授業
「健全な時代」と言うべきなのだろうか。
私たちの青春時代には、背中にベタッと死が張りついた感覚で生きていたものだ。だが、目の前に座る学生たちの目には、珍しいことを見るような好奇心、あるいは理由もない怖れの感覚が支配しているように見えた。
そもそも授業内容に関心がなく、席に着くなり堂々と机の上に両手と頭を落として寝だす無関心な者もいる。
初めて耳にすることなのだろう。死というのは年齢・性別・健康かどうかに関係なく突然侵入してくることがあること、高齢者の終末期の状況、人が死ぬと腐敗すること、昔は乳幼児の死亡率が高かったこと、孤独死のこと、…などなど、ほとんど学生たちの日常会話の俎上にのることがありえない話題なのだろう。
澱んだ空気にたまらず、教壇の上から大声を出し「寝ている者、喋っている者は出て行け!」と叫ぶ。すると学生たちは、教師が叱ることに驚き、姿勢を正す。自分たちの常に反抗的だった時代と比べ、今の学生たちは何と温和なのだろう、と今度はこちらが驚く。
「デス・スタディ(死について学ぶ)」は、どこかで体験が交差しないと難しいのかもしれない。「脳死」「セカンド・オピニオン」「死者との共食」など、今は彼らには呪語に等しいかもしれないが、いつか「知る」時が来ると信じて時間の最後まで授業をしたのだった。
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2011.3 記憶に留める家族
先日、新聞の死亡記事を見ていたら明治43年生まれとあった。12年前に死んだ父親が明治44年生まれであるから1年違いである。
この人は明治、大正、昭和、平成…と4つの時代を生きてきたことになる。
私が子どもの頃には慶応○年、という江戸時代生まれの人がいた。
私の上を辿ればキリスト教の牧師だつた父、東京帝大仏法科卒ながら元海軍中尉で途中軍隊を辞め武士の商法で見事失敗、最後は女学枚の用務員だつた祖父と93歳まで武家出身の誇りをもって生きた祖母、それに会ってはいないのだが家に軍服勲章姿の写真が飾られていた陸軍少将の曽祖父。曽祖父・曽祖母の墓は品川の禅寺の墓地にあり、私が管理している。その前は系図には記されているが知らない。
母の系譜で私の記憶にあるのは祖母までである。祖母の葬儀で、幼い私は母に手を引かれ葬列に加わった。私の下には昨年、息子に子が生まれたので2代。合わせて前後6代が記憶に留める家族ということになる。
懐かしさと不思議さがある。
隠居後、幼児であった私を肩車して近所の猿を見せにいってくれた祖父の温かさの感触が今もある。世間的には一族の期待を背負い、失敗した祖父。優しすぎる人だった。
その祖父の歳を私は超した。
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2011.1 初老
「今年だけで5人。これもわかっているだけ。もっといるかもしれない」
いつもの元気さを消すように彼は呟く。
「こんどのM君は自殺のようなものだ、と娘さんが言っていた」
頭部動脈瘤が手術できないほど肥大しているから、いつ何があってもおかしくない、と医師に1年前に宣告されていたらしい。その後は荒れて酒に溺れ、1晩に10万円呑んだときもあるという。3年前に妻が死亡、その後は離婚して家に戻った娘との二人暮らし。
「淋しがりだったからな。不安に耐え切れなかったのではないか」
6年前、がん治療での入院時に定年を1年前にして消防署を退職。幸いがんは治ったが、その後に妻に先立たれ、そこに医師の「いつ死ぬかわからない」との宣告。
くも膜下出血で、ほとんど即死のようなものだったという。解説書を見ると3分の1が即死状態らしい。
同じ末期でも、同じように告知されていても、入院したりと緩やかにやってくるがんによる死とは異なる。日常生活を送りながら、いつ破裂して死ぬかわからないでいる気持ち。
初老…とは、必ずしも死ぬまでに余地があるわけではない。現に同級生の死亡者はすでに12%を超えている。
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2010.11 葬列
山道は昨夜の雨で少しぬかるんでいた。
近所の年寄りは「滑るから危ない」と言われ、無念そうに家の前で葬列を見送った。
ここの山間はもともと土葬の習慣の残る地区であった。だが合併し「市」となった今、市の病院で亡くなり、その市の斎場で通夜、葬儀が行われ、市の火葬場で荼毘に付されるケースが増えてきた。
この日の死者は、最近では珍しく自宅で亡くなった。
85になる母親は「がんの末期で治療の術はもうない」と医師から言われ、娘が、「最期は家で」と母親を自宅に連れ帰ったのだ。
娘がスプーンで食べさせようとすると、母親は「もういい」と拒み、「ありがとう」と娘に感謝し、その数日後の夜、眠るように静かに息を引き取った。
翌朝、連絡を受けてきた主治医が「ばあちゃん、よかったな」と言って涙を零した。
葬式は「母の遺言ですから」と自宅で行われ、近所の年寄り仲間が集まった。
山の中腹にある共同墓地までを葬儀社の若い社員たちが柩を担いだ。
檀那寺の若い副住職が葬列を先導。埋葬地に鍬を入れて引導を渡した。
柩が静かに掘られた穴に静かに下ろされた。
娘は再び盛られた土の上に、履いてきた草履を脱いで置いた。そして合掌した。
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2010.9 突然父は逝った
ドーンという音が身体に響いた。
時計を見たらまだ明け方の4時過ぎ。
うめき声のする玄関に急いだ。
父が倒れていた。頭から血を流しながら。
それからのことはちゃんと記憶していない。
父を抱き起こして声をかけたこと、救急車を呼んで病院に搬送したこと、父がストレッチャーで救急病棟に入って行ったこと。
気がついたら手術室の前の廊下のベンチに座っていた。息子が隣りにいて、私の手を握ってくれていた。
「おじいちゃん、どうした?」
息子は黙って首を横に振った。
父はこのところ病気がちではあった。でも階下のトイレに一人で行けないということはなかった。口は少し重く、どもり、不自由ではあったが、家族とのコミュニケーションには何の問題もなかった。
母が5年前に先立ってからは、いっそう寡黙になり、食事以外は自室で過ごすことが多かった。まったく手がかからない老人だった。
来月16日で父は80歳になるはずであった。たまには妹一家も呼んで、賑やかに食事をしようと計画していた。
病院からは寝台車に乗せられ、家に帰り、父を居間に安置した。朝の8時を少し過ぎた頃、朝陽が頭に包帯をまいた父の顔を射していた。
まだ温もりのある父の頬に私は頬を寄せてみた。
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2010.7 父の想い
「親爺、もういいじゃないですか」
従兄が叔父を大声で制した。
父の葬式をなぜしないのか、寺に断らずにいいのか、と私に向かってなじっていたからだ。
叔父の気持ちも充分に理解していた。
「私たちもできるならば葬式をしたかった。だが、これは父自身の家族への言いつけだった」と叔父には繰り返し説明した。
「寺の墓はどうするつもりだ」と言う叔父。
今までずっと叔父が長男である父に代わって寺との付き合いをしてくれていたから、私は「叔父さんがいいように」と答えるしかなかった。
父は戦争末期に学徒動員された、という話は聞いたことがある。でも父は生前そのことについて詳しく語ることはなかった。ただ葬式については、頑なに「俺の葬式はけっしてするな」と言うだけだった。
叔父は肩を落として呟いた。
「いいじゃないか、せっかく生きて帰ったいのちなのだから。葬式されないまま死んだ仲間にそこまで義理を通さずとも」
父にとっては「戦友」という存在が、懐かしさよりも、散乱し片々となった生温かな死者の感触として常にあったのだろう。傷みをもって想起し続けた仲間だったのだろう。その父の想い、頑強なこだわりを大切にすることが死者たちへの追悼でもあると私は思った。

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2010.5 生と死の境
「S君が死んだ」
同級生の死を知らせるK君の声は沈んでいた。
この4月中に同級生が2人死んだことになる。
「明日、弔辞を読まねば…」
4月上旬に死んだA君は、地元に残り、愛すべき人柄と面倒見の良さで「同級会終身会長」だった。これまでは同級生の葬式では、「同級生一同」という名の供花一基を出すことと終身会長のA君が弔辞を読むのが、いつのまにか慣例となっていた。そのA君の葬式ではK君が弔辞を読み、また、S君の葬式でもその役をK君が務めることになった。
「弔辞を読む」というのは、心理的負担が大きい。政治家や大企業・団体の経営者やトップの場合はともかく、通常は死者と特に親しかった存在だから弔辞を頼まれる。
自分より年齢の若い者が死んだ場合には「先立たれた」という身を切る辛さに相対することになる。
同級生の場合には、落ち込むような寂寥感と同時に、「死に迫られている」自分を覚悟する。A君もS君も「家族に囲まれて静かに息を引き取った」という。一抹の安堵感。
S君の場合は、危篤と聞かされて仲間とK君が病院に急行し、本人に面会し、病院を出て20分後に息を引き取ったという。
生と死の境界は、限りなく接近している。年齢が死を決めるのではない。


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2010.3 弔われなかった死者たちの「葬」
「葬」とは、歴史的に見れば多様である。
大昔であれば、死ねば山や野に、いや川原や路端に捨てられたこともある。聖たちがその死体を集めて火をつけ燃やし、その跡地である塚に名をつけて歩いたとされる記録もある。
中世から近世にかけ、戦場や災害で死んだ者の死体は集められ、大きな穴が掘られ、そこに投じられ埋められ、その跡は塚となった。
だが大昔でも、死者を棺に入れ、集落の近くにハカを設けて埋葬したり、死者を担ぎ、霊の他界への入口と伝えられた聖なる山の麓に置くことで弔ったこともある。 近世になると、民衆へも、死者には「戒名(法名)」と言われる死者への名の贈与が行なわれ始めた。他界へ旅立つ餞のように。
今も世界では、戦災や大災害での死者が、名もなく葬られることが起きている。
日本でも、わずか半世紀余り前の第二次大戦中の戦地や被災地では、個々の名を記録されない「葬」があった。それを悔いて、一人ひとりの死者の残滓を探す旅も戦後60余年を経た今でも続けている人がいる。
「施餓鬼」の由来とは別に、毎年寺で行なわれるその場では、名もなく葬られた死者たちへの深い悔恨や慙愧があるだろう。「葬」が揺れる今、弔われなかった非業の死者たちの「葬」にも目を向けることがあっていい。


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2010.1 悔い
出棺時に、彼はボロボロ泣いていた。
肩を大きく震わせながら。
「ごめんな、ごめんな、ごめんな…」
彼は棺の中の妻に囁きながら謝り続けた。
彼の妻が倒れた時、彼は不在だった。
その日彼は、予定されていた会合とその二次会にも行くと言って出かけた。
その朝、普通に、彼の妻も毎朝やっているように、外に出て彼を見送った。
彼女が倒れたのは、推定だが、夜の8時を回っていた頃のようだ。彼女は一人での夕食を終え、その一人前の食器は洗いかごにあった。
彼はその夜二次会を終え、電車に乗る時、いつものように妻に電話をした。だがその電話に妻は出なかった。地元駅に着いて再度電話した。呼び出し音が空しく鳴り続けるだけだった。
妻は居間の床にうつ伏せで倒れていた。すでに身体は冷たかった。
自分が死ぬことを予想することはあった。ベッドに横たわった自分が、妻の手を取り、感謝を口にして死んでいくものだ、とばかり思っていた。
現実は全く異なっていた。妻は別れも告げず、自分の不在時に突然逝ってしまった。
友人の医師は「奥さんも何があったかわからなかっただろうよ」と言った。
でも「もし、自分がその時にいたら」という悔いから逃れることはできるのだろうか。


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2009.11 同級生
彼は同級生であった。
小学、中学、そして高校の1年まで同じ学校だった。というのは私が高校2年で転校したからだ。
中学時代、彼は柔道を、私は篭球(バスケットボールのこと)をしていたから、あまり交わることはなかった。
昨年秋の同級会での様子が忘れられない。
彼は少しやつれた顔で「千葉のがんセンターに通っている」と私に淡々と話した。
そして同級生の皆の顔を瞼に焼き付けておくかのように、静かに皆の様子をやわらかい目を細めるようにして追っていた。
その彼が死亡したとの報せは、やはり同級生のKからであった。地元の病院で、家族が見守るなか、静かに息を引き取った、と。
私が知るかぎり、現在2名の同級生ががんに罹っており、それも聞くと末期のようだ。
1人、2人、…と櫛の歯が抜けるように同級生が欠けていく。20歳を前にして死亡したのが2人。50歳を前にして死亡した者が2桁。
先に死亡したのには女性もいる。
その一人、彼女は、中学時代、脚が速く、陸上部で活躍していた。日焼けした顔でチャーミングに微笑んでいた顔を記憶している。
早くに地元を離れ、早くに結婚し、料理店の女将となり、早くに死亡した。
黙っていても、死は向こうからやってくる。

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2009.9 彼の死後
その男の写真とプロフィールは彼の創設した会社のホームページに今も残っている。
彼が創設したとはいえ、それは彼のフリー編集者としての事務所で、晩年(といっても40代)には、ほとんどボランティアとして医療活動の事務局を担った。その傍ら、その関連の人たちの手記を、自費出版に等しいものを、事務所の社名で細々と世に出した。類を見ないほど生真面目に、無骨に、彼は生きた。
彼が病死したのは48歳であった。
彼の死とともにその事務所は閉じられたはずであった。なぜならそれは彼個人の事務所に等しかったからである。
ある日、新聞を見て驚いた。その時世の中を席巻したメガ・ベストセラーの出版社の名が彼の事務所名で、その翻訳・発行者名として彼の配偶者の名が出ていたからだ。
その成功は、彼の没後、彼女自身の手のみで達成したものであったが、いつのまにか彼女の成功物語の重要な序章に彼が位置づけられていた。
彼の生前、一時は一緒に仕事をし、歳は下だが、10年くらい、よく新宿御苑のスナックで呑んだ者としては、複雑な想いがした。
彼は報われず、地味に生きて、死んだ。その彼を、彼女は、表舞台に自らと一緒に、必死で引き上げた想いがしたからである。
彼女の愛を見るか、彼の困惑を見るか。

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2009.7 娘の死
人づてに聞いた話に戦慄することがある。
彼女に久しぶりに便りを出そう、と思っていた矢先のことであった。
話は確かな筋からのものだったから、それを事実と受け止めるべきであったろうが、私にはその事実を受け入れることを拒否するものがあって、彼女の父親にメールを送った。
「先日、はなはだ信憑性のない話を耳にし、それを根拠にお便りすることをお赦しください。ご一家のうえに何かあったとすれば、と深く危惧しております。嘘であればと思っております」
それへの返事はむごかった。
「ごめんなさい。哀しいことに本当なのです」
その先をすぐに読み続ける勇気がなかった。
メールには娘への切々とした親の気持ちが満ちていた。
「その時その時、その時で一所懸命に生きてきた恵(仮名)と受け止めてあげたい」
「精一杯、律儀に生きようとしてついにくたびれたわがまま娘をゆっくり我家に休ませてやりたいと思っております」
泣き喚いてくれたほうが、どれだけいいか。親が泣かないのにこちらはどうすりゃ…。
私にも彼女と同年の息子がいる。
「子の死は自分の未来をうしなうこと」というが、そんな甘っちょろい話ではない。
私はどうしたらいいのか、まだわからない。

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2009.5 祖父の記憶
私には「祖父の記憶」というものがない。
父方の祖父の晩年は、末子で、むずがる赤ん坊の私を背負い、近所のサル小屋に連れて行くことを日課とした。孫の面倒をよくみた好々爺だったらしい。
輝かしい学歴、期待された将校への道を挫折し、軍を中途退役した後、商売を始め、失敗し、父親(つまり私の曽祖父)が軍人としてなした財を全てを失い、老後を息子(つまり私の父)一家の世話になっていた。 でも挫折してくれて、ただの無名の生活破綻した一老人として最後を終えてくれた祖父を私は晴れがましく思う。下手に軍人として成功し、立身出世したならば、と考えると戦慄する。 祖父が失敗したから、父たちのきょうだいは生活苦で呻吟し、ある者は養子に、ある者は家出し、ある者は自死を選ぶ等、個々にはけっして幸せでなかった。だが、少なくとも戦犯の負い目からは逃れることができたのだと思う。
祖母や大叔父の前では、人生の落伍者となった祖父の話は生前禁忌だったが、孫でほとんどの記憶をもたない私には近しい感覚がある。
それぞれの家族には、それぞれの死者たちの記憶がある。それは成功者としての歴史だけではないはずである。
そういえば髭を生やし、勲章がちりばめられた軍服に身を包んだ曽祖父の写真は今どこに行ったのだろう。

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2009.3 スーチャン
名前も人生も知られることなく、今年の冬を耐えられず、亡くなった人がいる。
彼は通称「スーチャン」と仲間から呼ばれた。
彼の姓が「須崎」「菅原」「住田」「須山」「吹田」であるのを示すのか、姓ではなく名の「数一」「末男」「澄夫」からきたのか誰も知らない。ある人は彼がよく「スッゴイ」と連発する癖から呼ばれるようになったのではないかと推察しているが、確かというわけではない。
55歳だと聞いた人がいる。何でも東北から出稼ぎにきて、身体を悪くし働けなくなり、家に送る金がないため居ついたという過去。
雪国では冬は仕事ができず、家族の期待を受けて、東京に出稼ぎに出る男は多い。彼の一家5人は彼の稼ぎに拠っていたのだ。初めは順調で、子どもたちへの土産持参で正月に一時帰郷。彼を待つ家族が温かく彼を迎え、暖炉の火がやわらかく一家を包んでいた。
だが彼自身が仕事を失ったとき、家族5人への責任は彼を苦しめ、家から遁走したのだ。
彼の着衣を調べ、いつも持参していたカバンを調べたが、彼自身および彼の家族に連なる情報は出てこなかった。
彼は家族を捨て、彼は家族や故郷から捨てられた。「一ホームレスの死」と報じられたが、スーチャンは一人の固有の人格をもった人であったはずである。その死が「不詳」とされていいのだろうか。

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2009.1 彼女の死
彼女が死んだらしい、と噂で聞いた。
先月まで元気だったのだから嘘ではないか、と信じられないでいた。 もし、噂がほんとうなら、彼女と私が大の親友であると知っている娘さんから何かの報告があるはずだし、単に噂だけで安否を確認するのも、と思った。考えてみると連絡は全て彼女からだった。私にはない積極性を彼女はもっていた。
数日後、彼女の娘さんの名前で手紙が届いた。
2週間前に脳溢血を起こし路上で倒れ、救急車で病院に運ばれたが、すでに息はなかったこと。
あまりに急なことで、家族がどうしていいかわからなくなって、彼女の友人・知人の誰にも連絡することなく、父(本人の夫)と二人だけで送ったこと。父はまだ現実を受け入れられず、一日中呆然としていること。でも本人と親しくしていた方々にはご報告する必要があると、娘の一存で手紙を書いたこと、が記されていた。「やはり噂はほんとうだった」と悔いる気持ちと、「どうして知らせてくれなかったの」と訝る気持ち、そして彼女がほんとうに逝ってしまったのだ、という事実で身体が震えた。
噂を耳にしてすぐに直接連絡を取ろうとしなかったのは、私自身が彼女の死を怖れていたからだった。
同い年、45年の二人の歴史が閉じた。

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2008.11 「夢」と刻まれた墓
このあたりのはずだが…
その墓地の奥行きは広く、以前来たときの記憶があいまいなものだから、周辺を行ったりきたりして捜した。
「夢」とだけ刻まれた墓を捜すのにゆうに30分かかった。寒いのに汗が滴った。
墓石の横には、友人の本名が「享年29」という文字とともに刻まれていた。
私は持参したウイスキーの角の小瓶をあけ、「夢」という文字に振りかけた。
あの時代、私たちの顔は激していたが、心は凍えていた。未来はないものと思っていた。空元気というのはこういうことだ、と感じ、苦く味わいながら、やたら元気に振る舞っていた。
その数日後、彼は死んだ。事故と言われた。彼の死が事故でも自死でも私はかまわなかった。彼の不在という事実にただただ圧倒されていた。
一周忌に招かれ、最初に墓を見たとき「『夢』はないだろう」と激しく違和感を覚えた。それ以来、私は「夢」という文字に「惨敗」「空虚」という意味を重ねることが常になった。
今回来て思った。彼の両親が「夢」と刻んだのは、両親には彼の存在が「夢」であり、彼の死は彼らの夢の喪失を意味したことを言いたかったのではないか、と。
夕陽が眩しかった。 、それは…」と、おろおろするだけで、こういうときの常套句すら口から出てこない。息子を亡くして絶望だけが隣家にある、ということだけはわかった。
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2008.9 自死とその葬儀
家に近づくと、近所の人たち数人が真剣な、驚いた顔を寄せて話していた。
近づく私に、「お隣の息子さんがいま救急車で運ばれて…」と、その一人が言った。
私は、昨日、息子さんが近くをいつもどおりに歩いているのを見ていたのできょとんとしていると、「いや、事情はよくわからないけど…」と言葉を濁して、一様に顔を見合わせた。
突然、隣家の中から切り裂くような、吼える声がして、隣家の娘さんが飛び出してきて、裸足のまま、私たちの前を走り去った。
その日は詳しいことはわからなかった。翌朝、前の日に集まっていた一人が電話で、
「お宅のお隣の息子さん、亡くなったって。自殺らしいの」と教えてくれた。
隣家は2日間、電気も点かず、ひっそりとしていた。
近所の者とて何もできなかった。噂だけで、隣家からは何の通知もなかったからだ。
3日目、隣家の娘さんが来た。
「お騒がせしました。弟が死にました。昨日、密葬を済ませました。両親はしばらく家には帰らないと言うので、お宅にだけはお知らせしようと」と、ゆっくり、低い声で告げた。
私は「それは、それは…」と、おろおろするだけで、こういうときの常套句すら口から出てこない。息子を亡くして絶望だけが隣家にある、ということだけはわかった。
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2008.7 最期は眠るように
なぜかホッとしていた。
実母の死は悲しみが強い、と思っていたが、今、母が息を引き取ると、違っていた。
私は酷薄な人間なのだろうか。
看病、介護は、昨日までは苛烈、過酷なもののように感じていた。
正直、母を怨んだこともある。
自分の時間というものが、すっかり母に奪われているという被害者意識が支配していた。
この苛烈、過酷な日々が終わりなく続くものと考えていた。
だが、今、母を見つめ、そのまだ温かな身体を抱いていると、昨日までの日々が懐かしく、優しい気持ちで振り返ることができる。
母の表情は柔らかであった。
夫が「お義母さん、最近は目が優しくなっているよ」と言っていたが、優しいと感じる余裕が私にはなかった。
確かに、今、母の表情は安らかである。
私が介抱で、食事づくりであたふたとして気づかなかっただけだったのかもしれない。
そういえば、このところ母の常套句であった
「死にたくない」
という言葉を耳にしていない。
眠るように死ぬ、ということは本当にあることで、母がそういう最期を迎えることができたことを、私は幸せに思っていた。
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2008.5 夜中の電話
夜中に電話があるといまでもビクリとなる。
それは叔父の死であったり、親しい後輩の死であったり、夜中や明け方の電話は親しい者の死の通知と、私の中では深く結びついているからだ。
親しい者が病床にあるときには、避けられればと思った死がついに到来したのか、と刃が胸を抉る想いがし、怯えた。
それが突然の死であったときには、呆然として現実感を失った。
「死者」とされた親しき者の顔がクローズアップされ、その図は常に笑顔で私に声をかけているものであるのはどうしてだろう。
夜または明け方、私は車に乗り込み、病院または遺族となりたての家族のもとへと急ぐ。それが嘘であり、夢であることを願いながら。
死は誰にも必ず訪れるものとは知りながら、私は親しい者の死をどこかで偽りであってほしいと願っているのだ。
まだ微かに温もりを残した親しき者の手に触れ、顔に触れても私にはまだ現実感がない。
何か役立つ仕事を見つけ、黙々とその作業をこなす。
涙が出るのは決まって通夜の晩だ。弔問客が帰り、家族がくたびれ果てて床に就いた後、独り柩を抱きながら滂沱するのだ。大きな虚無に胸を塞がれながら。
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2008.3 兄が死んだ日
あの日、兄が息を引き取った日から1年が経過した。
一周忌の通知は来ない。
嫁いだ身としては嫂にも、甥にも文句を言うことはできない。だが、切ない気持ちは抑えられない。
墓参りに行こう、と思ったが、兄の家族と出くわしたらいやなので止めた。
そうだ、兄の写真があった。
母に連れられ、二人して、目いっぱいのおしゃれをして写真屋さんで撮った、中学生の私と高校生の兄との二人での写真だ。
兄は、お洒落したといっても床屋さんに行っただけで、学生服だ。
兄はブスっとしていたがおそらく照れていたのだろう。私はただはしゃいでいた。
その写真を飾り、ご飯を供えた。
兄が死んだ日、私には連絡がなかった。
翌日になって電話で甥から知らされた。
頭が真っ白になった。
そして受話器に向かって怒り始めていた。あの時、父を亡くした甥に慰めの言葉一つかけられなかったことをいまは悔やむ。だが、その時、私にはそれができなかった。兄を強奪された想いでいっぱいだった。
通夜、葬式と私は不機嫌だった。
あれから1年経ったいま、私はただひたすらさみしい。
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2008.1 父の最期
昏昏と眠り続ける父を見守るだけであった。
父の50代以降の人生は寂しかった。
結婚したばかりの若い息子が急逝、認知症になった老母を独り看取り、長く連れ添った妻と離婚し、独り暮らし、その元妻も急逝したがその葬式への参列は許されなかった。
父は、気はいいが、酒には溺れ、いわゆる「酒乱」だった。格好を気にし、夢は語るが、実現する根気というものがなかった。
大手の商社に勤めていたが、先輩の甘言に乗せられ独立。しかし世間の風は厳しく、借金を背負ったままその事業から撤退。愛想尽かした妻が離婚したのはその時だった。
娘である私も早婚で失敗し、息子を連れて実家に戻っていたが、父母の離婚を機に母と同居、父と縁を切った。しかし、時折、父から電話がかかってきた。
同居した母が急逝、母の実家の手を借りて送った。その後、私は再婚。実直さだけが取り柄の、父とは反対の性格な夫だ。
その父が救急車で入院したと病院から連絡があり駆けつけた。肉親と呼べるのは私だけ。
もう意識はなく、父母が一緒に暮らし健在だった時に登録していた尊厳死のリビングウィルが頭を過ぎった。だが、なぜか実行に移せず、ひたすら見守るだけだった。
入院して一カ月後、父は息を引き取った。娘である私が最期を看取ったことも知らずに。
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2007.11 生活と墓
北陸に旅行した折り、列車は日本海沿岸に沿って走った。海の青の鮮やかさに魅入った。山間部に入ると、車窓から墓が見える。
墓というと墓石が林立する墓地を普通イメージしてしまうが、この墓は違う。
集落地の一角に数個の墓石があったり、山側の斜面にやはり数個の墓石があったり、中には家の庭地に墓石があるのもある。
いまでは新たに創設が認められなくなった集落墓地、個人墓地である。
死者の世界が生者の世界と隔離されているのではなく、生活空間と共存している。
珍しいことなのかと思って車窓から注意してみていると、こうした墓があちこちにある。家族が死者に寄り添って生きているのだ。
生活空間から隔離された墓も古くからあるが、こうした生活空間と共存した墓も古くから存在する。
日本人が墓に対してもつイメージというのは昔から多様であったという、いわばあたりまえの事実に気づかされた。
墓石の形も和型の三段という点では共通していても、土台の形が地域で異なる。
雪国の墓石は土台が高くなっていることが多い。雪が降っても墓がわかり、納骨できるようになっている。もっとも九州の都城でも墓石の土台が高かったが。
生活と墓、これは密接に関係している。
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2007.9 老い
「なかなかお迎えがこないんですよ」
彼は不自由な脚で杖をついて立ち止まり苦笑した。
「おいくつですか」の問いに
「93歳になりました。周りに迷惑ばかりかけて、いやになってしまう」
老いというのは、はじめは徐々にだが、ある時急激に進む。しかし、その後停滞する。

そこで人は自らの果てしない老いを自覚する。
と同時に自分の死を自覚する。
「自分の身の回りのこともできなくなっちゃって、もう早くお迎えがくればいいという心境ですよ」
「前は長生きしたいと思っていたけど、長生きできて、もういいやと思ったら、なかなか死なせてくれないんですよ」
身の回り、特に排泄の介助が必要となったとき、高齢者の自尊心は粉々に砕かれる。
介護するほうも大変だが、当の高齢者にとって精神的な苦痛ははかりしれないものがあるように感じる。
人間の尊厳というのは抽象的なものではない。きわめて具体的で実際的なものであるように思う。
90歳、老衰で死んだ義母を看取ったとき、その死顔はやすらかだった。
身体だけでなく精神も辛かった長い苦闘からやっと解放されたやすらぎがそこにあった。
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