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碑文谷創


1998.7 通夜
人間の心は傷つきやすく、脆い。だからだろうか、人は必死になって心に壁を作り、鈍感になろうとする。そのうちに悲嘆に出合っても泣けない自分がいつのまにかできあがっているのを知り、愕然としてしまうことがある。
通夜ではしばしば大人たちが酒を飲みかわし、遠慮のない笑い声を上げる。誰かが死者の思い出話をすると、その瞬間はしみじみとした空気が流れるのだが、その空気を一掃するように、また誰かが無関係な馬鹿話を提供する。狂騒に彩られる通夜は私たちには見慣れた風景となっている。
愛する祖母を喪った孫娘が、やはり実母を喪い、悲しみを男どもの狂騒の宴の酒の燗に忙しくすることに委ねている母に「嫌だ」と訴えた。
「なぜあの人たちは悲しくないの?」
まだ若い母は台所着のまま娘を抱きしめる。
馬鹿話に現を抜かしている大人の男どもはここで居場所を失う。ひどく道化て見える。
言い訳をするならば、大人も死を忘れているわけではない。悲しみがないわけではない。だが、直面する術を知らなくなっているのだ。落ち着かない感情は狂騒に委ねたほうが楽なのだ。そのうち狂騒が通夜の慣習になることすら少なくない。
そして狂騒の中にいながら、きっと誰かが冷たい眼で睨んでいるにちがいないと密かに怯えている。
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1998.9 彼岸
かつて逝った家族の死者たちが親しく感じられる季節というのがある。
盆、春秋の彼岸の墓参りは、何かそわそわする。死者たちと出会えるということが、頭ではなく、皮膚感覚で感得するのだ。
祭が死者を記念する季節と同期しているのは偶然ではないだろう。時空を超えた出会いへの期待が死者と生者の垣根を破り、気分が高揚し、非日常の世界を現出させるのだろう。
この季節に感じる死者に対する懐かしさというのは、何か子供時代を共にした仲間との同窓会の気分によく似ている。
時間と共に自らも仲間も容貌は大きく変化しているのだが、見ているのは少年時代の己らである。喧嘩もしたし、手ひどい侮辱を受けたりもしたのだが、懐かしさだけが感じられる。そして少年時代を自分の人生の一部として確認するのだ。
死者とめぐり合うとき、私は自分がその当時共生していた家族の空気を再び嗅ぎ、自分のその時代を確認する。
自分の人生は一本の線のようであるが、実はそうではないようだ。それぞれの時代において人々と交わりあい濃密な空間を作り上げ、それらが重層的に織りなしているもののようだ。
死者を想うことは私自身の確かなメモリーである。
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1999.1 17年後
一五年ぶりに届いた手紙に一枚の写真が添えられていた。
そこには、すっかり貫祿をつけ、にこやかな表情の中年の女性、若々しく眼を輝かした娘、ちょっと照れている背の高い息子の三人の姿があった。
南国で暮らす、彼の遺族の一七年後であった。
葬儀の日、娘は母親の腕に縋りついて心細そうな表情を浮かべていた。息子は、落ち着かず、あちこちと走り回っていた。
まだ若い母親は、夫を突然喪った衝撃で呆然として宙を睨み続けているだけだった。
小学校にも通わない遺児たちは、父親の不在を感じ取ってはいたが、長く単身赴任で留守していたときと違いをあまり認識することはできなかったろう。だが、突然人の輪に巻き込まれ、周囲がざわめいていることに、毎日とは異なる不安を感じていたのだろう。
われわれは葬儀の席で、彼のためにも、そして彼が愛した彼女の悲しみのためにも泣いたが、成長するにつれて父親の死を実感することになるだろう二人の子供のためにも涙を流した。
送られてきた三人の写真は、裕福ではないが、落ち着きと確かな家族の幸せを示していた。だが、この一五年の三人の心の道程を推し量ると、再び熱い涙がこみ上げてくるのだった。
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1999.3 弔う
僧侶であり歌人である福島泰樹が自問する。
「人は死んだらどこへゆくのか」
そして、解答を見いだす。
「そうだ、人は死んだら『ひと』の心の中へ行くのです」(『弔い』ちくま新書)
今、この言葉の深さをしみじみと想う。
これまでも、多くの人はこのことを信じてきたし、今もそうだろう。だが、この言葉は宗教性のない表現として拒まれてもきた。浄土、天国などと言い表すもの、それが行き先であると。
浄土、天国などと言い表すものがどのようなものであるかを知ることはできない。だから、もっとこの素直な想いに固着していいいのではないか。
死は、生者と死者との間に越えられない溝を作りだす。生者もまた、将来においてこの溝を越える定めにあるのだが、今、越えられないことは確かなことだ。その断崖の縁に立ち、生者は言い知れぬ悲しみ、嘆き、淋しさに突き落とされる。
死と出会い、私たちの心は壊れる。
弔いとは、死を嘆き、死者を心の中に取り戻し、蘇らせようとする、無駄と思われようがせざるを得ない、必死な作業なのだろう。
弔うことの意味や有効性を問う必要はない。弔うとは、死に出会った者が自然に営む作業であるからだ。そしてそこに人の真実がある。
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1999.7 死との距離
同じ年代の者の死は辛い。年下の者の死はもっと辛い。何か生き残っている者の存在価値が問われる気がするのだ。といっても自信はない。
若かった時代、周囲で自死する者があいついだ。自死の意味を問う気持ちにもなれず、懐に刀を突きつけられ、責められた想いがし、 私は何も考えられず、ただオロオロするだけだった。
40代になる頃より、周囲で親を亡くす者があいつぐようになった。 家族の死がその友人にとってどういうものなのか量りがたく、短い弔いの言葉を 口にするだけで、静かに見守っていた。
50代になり、友人やその配偶者の病死が周囲に出てきた。急に自分の死が現実味を帯びる。 自らの体調が悪いと、いつ死に繋がっても不思議ではない、という想いを抱くようになった。高齢 社会と喧伝されても、自分が90歳はもとより80歳まで生きる保証はどこにもなく、後1年のいのち かもしれない、とつくづく思うのだ。
おそらくこうして、人は歳を重ね、死別を重ねることにより、死に馴染んでいくのだろう。 87歳で死んだ父は、死期を自ら覚って受け入れて静かに眼を閉じた。友人たちが既に去り、ようや く仲間入りできるという安堵感すら見えた。
私もこの頃は、弔いの場で、死者と再会を約す言葉が身に沁みるようになってきた。
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2000.1 年賀欠礼
父が死んで1年になろうとしている。 12月に入ると、年賀欠礼の葉書が舞い込む。
今年は例年に比べてずいぶん多い。私同様に親を亡くした人が多いが、配偶者やきょうだいを亡くした人もいる。
私は年賀欠礼の挨拶をすることをやめた。積極的な意思でそうしたわけではない。出す気が起きなかっただけである。また、命日に家族で集まろうという兄の誘いも断った。老いた母親には悪い気もしたが、どうしてもその気になれない。
1年前、父の死の直後には、深い衝撃のためか、父の生前の像が失われ、もどかしい想いがしたが、今は思い浮かべることができるようになった。
父が照れたように笑いかけてくる像が多い。
葬式では涙がとまらず、姉に冷やかされた。「おまえはいちばん迷惑や心配をかけたからだろう」と。
若い日を後悔するわけではないが、父が周囲を敵にしても無条件に息子擁護を唱えたため任地を追われた古い事件は、今でも私の心の傷だ。
久しぶりにわが家に長男が帰ってきた。疲れて炬燵で眠りこむ姿を見ていて、父が私を見続けていた眼の奥にあるものがわかった気がした。
火葬場での拾骨のとき、骨壺に収めるため、父の骨を手で砕いた。あの瞬間、父に感じた切なさといとおしさは今も私の胸の中に息づいている。
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2000.5 樹木葬
その日、雑木林はきれいに手入れされ、林の中には陽が射し込んでいた。
踏み固められた小路を尾根に向かって登る。
両手に抱えた父の骨箱がカラカラと音をたてる。
前を住職と並んで母親が歩く。姉は自分と父の遺骨を見守るように後ろから来る。
「少し汗をかいた」
姉の声は寂しさの中にも伸びやかさがあった。私は両手の骨箱に少し力を入れた。
尾根に登ると先に白い雪をかぶった山が見える。「いいところですね」
母が住職に話しかける。あの山は衣川付近で国見というらしい。その奥に奥羽山脈が見えるらしい。きょうは少し薄曇り。残念なことにきょうは奥羽山脈は見えないが、父はこれから毎日ここにいるのだから、見る機会は幾度もあるだろう。
「ここがいいんじゃない」
母が選んだ地点は私も姉も異存がなかった。穴を堀り、骨壺から遺骨を流し込んだ。
しばらく穴にあけられた遺骨を皆で見ていた。
土を被せ、ドウダンをその上に植えた。
母は顔を綻ばせて言った。
「あの人らしいと思う。ここに葬ることができて少なくとも私たちは満足しています」
父、54歳。駆け抜けた後、静かに東北の山に眠る。
樹木葬墓地について詳しくは祥雲寺のホームページをご覧ください。
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2000.7 寂しい葬式
寂しい葬式だった。
会葬者はそこそこいるのだが、温かみも、家族を喪った悲しみもそこにはなかった。
遺族の顔は、ある者は疲れている様子、ある者はできるだけこの場を早く立ち去りたいとして落ち着かず、ある者は事務的に淡々としている。
会葬者の様子にも何かよそよそしさが漂う。
故人は自営ではあったが、そこそこに仕事をして大きな家を構えていた時期もあった。
後年、ひどく気難しくなり、長年連れ添った妻も愛想を尽かす形で離縁。子供たちの家庭とも縁が遠くなった。
独り暮らしとなった彼は、働く意欲もなく、次第に家財を失い、アパート住まい。頑固さは増し、それに痴呆も重なり、近所付き合いもなかった。
民生委員が発見したときは、汚れ物と汚物に塗れて虫の息。
すぐ入院させられ、家族にも連絡が取られた。だがやってきたのは末の息子一人。
祭壇には子供たちが勤める企業からの生花と共に「子供一同」と書かれた大きな生花が供えられた。
その花の瑞々しさ、華やかさが、かえって死者の孤独と家族との断絶の深さを表しているように感じたのは私だけであったろうか。
独りで死ぬのはいい。後にやるせなさだけは残したくない。だが、これも一つの現実の死。
私は孤老の死に自分の未来を重ねて怯えた。
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2001.1 ペット・ロス
「死の体験」という授業がある。
その中に、棺の中に実際に入って寝てみる、というのがある。
自分が死者の立場になったら、と考えてみる作業である。
私たちは自分が体験しないこと、自分がその立場に置かれないことについては想像力に欠ける。他人事になってしまう。そこで役割を演じてみる。
それは疑似作業であるが、少しは考える。
ペット・ロスが大きな問題となっている。
飼っている犬・猫などの死による衝撃のこと。
最初は「家族の死の疑似体験」くらいに考えられていた。だが、実際に見聞きすると違っていた。
今、ペット・ロスは、家族の死と等しいか、それ以上のことがある、という事実である。
それは、その人にとって、ペットが家族と等しいか、あるいは、自分の分身ともいうべき家族以上の存在であったということを示している。
あらゆる世代にわたって一人暮らしが増えている。
家族と同居していても心通わないこともある。
自閉的に孤独を好んでも、そこでは人は何らかの関係を求めているのだろう。それが人ではなく、ペットであったり、人形だったりする。
喪失の大きさに出会うとき、私たちがいかに関係を希求する者であるかに気づく。その関係が人から離れる傾向にあることをどう考えるべきか。
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2001.7 盆
暑い夏は死者の匂いがする。
知人の配偶者が亡くなったとの知らせで駆けつけた汗に塗れた葬式を思い出す。
知人の家に招かれたこともあった。笑顔がすてきな人だった。
葬式で知人が子供たちを抱きしめながら立ちすくんでいた様を今でもはっきり思い出す。
私は敗戦直後に生まれた。小学時代まで戦争の痕を社会が引きずっていた。
シベリアに抑留された弟の帰りを待ち、ついにその希望をかなえられなかった人がいた。
広島や長崎の記録は幼かった私の心を震撼させた。影だけが残った死者の写真は私の死の原像の一つとなった。
戦争を知らない子供たちの一員であるが、大人たちの皮膚に強く刻印された死者たちの匂いを時代と共に呼吸していた。
盆に死者は帰ってくるという。
私には、盆とは、遺された者たちの「死者の思い出を自分は死ぬまで消さない」という覚悟の行事に思えた。
大人たちが熱心に盆飾りする様、墓石に水や酒をかけるとき死者に向ける眼の優しさ。
私はそこから死の厳しさ、悲しさを学んだ。
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2002.5 祖母の死
初めての葬式だった。
祖母を看病しに上京していた母から電話がかかり、その死を知らされ、父に連れられ妹と一緒に慌しく出かけた。
父は母の喪服を手に黒服に身を固め、僕と妹は学校の制服姿だった。
僕たちを迎えた母の眼は腫れていたが、僕たちの姿を見て微笑んでくれたので安堵した。あれだけ祖母想いの母であったから、半狂乱になってはいないかと心配していたからだ。
母は「おまえたちもお別れしてね」と、布団に横たわる祖母に対面させられた。
「眠っているみたい、おばーちゃん」
妹はそっと祖母の顔を撫で「冷たい」と手を引っ込めた。僕も触ってみた。ヒンヤリしていた。表情が止まった顔が不思議だった。
僕たち家族は式では最前列に座らされた。人々が口々に母にお悔やみを言い、両親はていねいにお礼をしていた。僕と妹も倣って頭を下げていると「ご愁傷さまで」等と僕たち子どもにまで声をかけていく人がいた。
火葬場に初めて入った。母はここでは父の肩にもたれ咽び泣き続けだった。僕の眼もいつの間にか涙で曇ってきた。妹も泣いている。
お葬式の悲しさが胸を締め付けた。僕も妹もいつか両親と死別する日がくるのかと思うと急に怖くなった。
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2002.7 友人の葬式
強い日照りの日だった。
汗で背中にワイシャツが貼りついた。
式場の場所をきちんと確認しないままに出かけたのがまちがいだった。駅からの方向を誤り、遠回りをしてやっとのことで式場となった寺にたどり着いた。もう焼香は始まっていた。したたり落ちる汗をタオルで拭いながら列の後尾についた。
彼とは高校時代に知り合った。あるサークルの県協議会に、彼は私とは別な高校を代表して出席していた。
お互いに初印象は「生意気な奴」
背伸びをする時期であったから、お互いにいこじになって自分の主張を言い張った。後でお互い大学生になったとき、2人とも自分が当時何を言ったのか忘れていて大笑いした。
遺族席には彼の妻と彼そっくりの目鼻の娘と老いた彼の母親がいた。
昔彼の家に遊びに行ったとき、てきぱきと男勝りに動き回っていた彼の母親が、すっかり小さくなって呆然と祭壇の彼を見上げていた。
ガンであったという。最期は彼の妻と娘が交互に病室に寝泊りして看取ったという。2人の顔には疲れと嘆きがはっきりと見て取れた。
冥界に逝った彼は家族に何を託したのだろうか。家族に希望がいつか顔を出す日を願って汗交じりの焼香を薫じた。
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2002.9 疲れ、そして
周りは皆疲れ果てていた。そして虚脱していた。
「終わった」とだけ思った。
父親が意識を失って1ヶ月、医師はどんなにもっても1週間と宣告したのに、言葉を失い、感情を失った父親はベッドの上で点滴器に繋がれて生き続けた。
家族の誰もが、もういい、充分だ、生かすのは止そう、と思っているのだが、誰もが言い出すことを躊躇ったためだ。
父親は88年の生涯を立派に生き抜いたのだから、もう休ませてあげたい、と思ったのだが、父親への愛が家族皆を呪縛し、沈黙させていた。
医師も看護婦も疲れていた。
治すあてがないのはもちろん、痛みを和らげるでもなく、患者の内臓が働き続けることにだけ奉仕していたのだから、彼らも自らの仕事に意味を感じることはできなかった。
それでも、家族が「少しでも長く」と願っていたのならともかく、家族もまた沈黙の中に「終わる」ことを願っていることがわかっていたからだ。
朝、父親が息をしていないことに気づいたとき、誰もが慌てなかった。誰もが安堵し、だれもが空虚さを感じていた。
後には葬式だけが残された。
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2002.11 往生
祖母の吐く息がゆっくり、大きくなった。 小さな体躯をもちあげるようにし息をする。
祖母の細く、薄く、皺だらけの手を両手で握り続ける。
祖母は勝気な性格で、息子である父が一緒に住もうと申し出ても、頑として独り暮らしを貫いた。 その祖母が倒れたとの知らせに病院に駆けつけると、祖母は悪戯を見つけられた子のように、憔悴した顔にテレを交えて微笑んだ。
祖母は枕元から通帳を取り出し、「私の死に金だよ」と父に渡していた。これで病院の支払い、葬式の支払いを出してくれというのだ。
完全看護だから見舞いはいいと言うのだが、日に日に衰弱していく様子に心配し、1日おきには仕事帰りに顔を出した。
息子である父も、年金生活者で時間があるからと、毎朝、見舞うことを日課としていた。
1週間前、医師は父にもういつ死んでもおかしくないから覚悟しておくように告げた。
7日間、毎日見舞うが、祖母はもう何も言わず、目も開けない。静かに眠り続けるだけだ。
急にあたりが静まりかえった。祖母が息をすることを止めたのだ。
父も母も弟も、誰も声も出さず、動かない。私はかすかな温もりのある祖母の手をじっと握ったままでいた。
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2003.1 別れ
「会ってやってください」
その言葉に促されて、重い脚をひきずるように寝所に向かった。
そこには眼を腫らした長女と次女がいた。
座って深く一礼した。友人の死の厳粛さの前に頭が押さえつけられるような気がして、畳にこすりつけるようになった。
線香を1本手向け、しばし黙想。
「あなたに出逢えてよかった」
という想いと喪った寂しさが心を充満する。
「母の顔を見てやってください」
枕元に回り、友人の顔を見た。
眼を閉じ、口を結び、化粧された顔はとても美しかった。
元気なときに比べれば頬は落ちている。しかし、鼻のラインがすっきりしていて、若い頃には美人で騒がれたという友人の冗談話も実話だったのだと実感する。
活発な人だったから、よくしゃべり、よく笑い、ときどき怒り、と表情が豊かに動く人だったから、そこだけが時間が停止し、静まった状態にあることが納得できない。
逝った者は、遺った者へ時間の落とし穴を見せつける。その穴を見て愕然とする。
娘たちは健気だった。昨夜はずいぶん泣いただろうに、そしてまだ泣いていていいのに。
嘆きを裡に秘め、丁寧に、不足することなく応対している。その様が悲しかった。
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2003.3 叔父の最期
病室に入ったとき叔父は窓のほうを向いて眠っていた。
頬はこけ、すっかり痩せてしまった叔父の顔を黙って見ていた。
がんの末期で、もう1週間もたないだろうという話を聞いていたから、86歳になる叔父が私に気づいてくれるか不安だった。
しばらくして目を覚ました叔父は、「おーっ、ひでのりじゃないか!」と叫んだ。
叔父は入れ歯を抜いており、不明瞭な発音ながら、言い残さなくてはならないとでも思ったのだろうか、兄であり先に死んだ私の父とのことを一生懸命に話してくれた。
叔父が死んだとの知らせは、その3日後のことだった。
「ひでのりちゃんが見舞ってくれたのが話せた最後だったのよ。ありがとうね」
と、突然留守に病院に見舞った失礼を詫びた私に、叔母が言ってくれた。
叔父と叔母は、二人とも地味で真面目で、似たもの夫婦であった。60年間寄り添うように生きてきた二人だった。
葬儀の最後に、叔母が喪主として会葬者の前に立って挨拶した。
「かおる(叔父の名)の生涯は、最期まで神様と皆様に生かされてのものでした」
その態度も声も凛としていた。
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2003.5 酒
「もう、どうしたらよいかわからない」
ウイスキーグラスに指を絡ませ、友人は目を落として呟いた。
「眠れないんだ。いくら飲んでも。このところ毎日だ」
私にも経験がある。眠れない、だから飲む、でも眠れない、だからもっと飲む。最後は眠っているのか起きているのかわからない状態で朝を迎える。酒が躰を浸したまま。
「薬があるぞ」
と導眠剤を差し出すと、友人は手を払って去っていった。
数日後、早朝、友人の妻から電話が入った。酔った友人が前夜交通事故に遭って重態との知らせだ。
「酒をやめてください、と泣いて頼んだのに」
彼を責め、同時に自分の非力さを責める。
「もう助からない、とお医者さんも」
事故か自死をはかったのかはわからない。だが、これは彼にとってどうしようもなかったのだろう。どうにかなったというのは他人の言うことである。彼にしたって好きで飲んだ酒ではないのだから。
地獄は死んで行く先にだけあるのではない。彼にとっては生きていることが地獄だったのだろう。
しかし、彼の死が家族にとってもう一つの地獄をもたらすのも確かなことだ。
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2003.7 別れの空間
いつもこの瞬間がいちばん緊張する。
もう遺族は柩のまわりに寄ってきている。
私は一礼し、蓋を下げる。
両側を抱えられるようにして故人の配偶者が進み、両手でお顔を挟むようにし、撫でる。
脚の側は親族・友人が取り囲む。
ハンカチで口を覆う人、縋りつくような視線を送る者、脚を撫でる人…
別れの熱気というのだろうか。故人を慕う熱い想いが湧き出る。
ひと呼吸をおいて「お別れのお花を」と言い、きれいな銀髪が乱れた配偶者に1本差し出す。
「さよならね…ムゥ・ムゥ…」
言葉にならない呻き声を抑え込むようにして胸の真ん中に黄色い大きなユリを置く。
「皆様も、お好きな花をどうぞ」
顔の周辺が花で埋まり、一人ひとりが顔を撫で、髪に指を差し入れ別れを惜しむ。胴体の部分も足もとも色とりどりの花で覆われる。
「皆様、お花を入れられましたか」
すると小学生くらいの男の子と女の子が2人、後ろから背中を押されるようにして前に出てきた。2人にフリージアを渡すと、それぞれ空いている場所を探して、添え、母親に促され、眼を瞑り、小さな両手を合わせた。
それに続くように声を張り上げた。
「皆様、合掌をもってお別れください」
涙声が室内に広がり、私の眼も曇った。
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2003.9 会葬
私が通夜の会場である寺に着いたとき、正面の庭には会葬者がグルリと取り囲んでいた。
その中に見知った人がいたので目で挨拶し、横に並ぶ。
「残念でした」
「春にお会いしたときにはここいらを案内してくださったのですよ」
「昨年一度倒れられてから回復されたと思ったのに」
「お子さんはこれから大学だそうで」
本堂の中をうかがうと盛装した、顔がふっくらとした元気だった頃の写真が正面に掲げられていた。
向かって右手前にやつれ、俯きかげんな夫人が座り、その隣におそらく長男だろう。背筋を伸ばし、喪主の役目を健気にはたそうとしている青年が座っていた。
「ご病気が長かったから奥様もお疲れでしょうね」
側に遅れてきたもう一人の知人が近寄ってきて教えてくれた。
「たいへんな数の会葬者ですよ。もう門の外まで並んでいますよ」
「いろんな活動を一生懸命なさった方だったから、惜しむ人が多いのでしょう」
老若男女という言葉がふさわしい多彩な顔ぶれが、ある人は目を腫らし、ある人は呆然として、静かに庭を埋め尽くした。
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2003.11 家長の葬式
この寺を最初に訪れたのは祖母の葬式のときだった。
まだ小学校にあがる前の私は母に手を引かれ、長い道を歩いた。皆と一緒ということ、道が長かったということ、お寺の本堂が広く、長い時間座って脚が痛かったことが記憶にある。
今度叔父の葬式で行ってみてわかった。祖母の葬式のとき、母は白い布を頭から肩にかけて覆っていたのだろうと。喪主である叔父は白い三角巾を頭につけ、位牌を手にしていたのだろうと。
東北の田舎町はまだ昔の葬式習俗を留めていた。変わったのは、歩くのではなく、マイクロバスで寺の門まで行ったこと。叔父ではなく従兄が位牌をもち、従弟が叔父の遺骨を抱いていること。いや、あのとき祖母は遺骨ではなく輿で運ばれたように思う。当時はまだ土葬だった。
旧家の長男であった叔父の家には庭先に長い槍があった。戊辰戦争のときに使われたらしい。その槍は叔父が町に寄付し、もうない。
長く教員生活をした叔父は、私の高校時代の保証人。温和で怒った顔を見たことがない。
母方の親族のまとめ役であったから、葬式には歳を重ねたいとこが皆揃った。懐かしかったが、中心が欠けたような淋しい想いを感じたのは私だけではなかっただろう。
家長の時代が終わったと思った。
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2004.1 孤死
待った。
危篤だと伝えたのが夕べのこと。しかし家族はまだ現れていない。今朝も電話した。
「行きます」と事務的な返答があった。
しかしベッドの住人は待てなかった。少し広すぎる個室で一人息を引き取った。
眠るような最期であったことが救われる。
3時間前また電話した。今度は死亡の連絡。
「行く準備をしています」冷静な声が返ってきた。
自分の最期はどうだろうかと考えた。このベッドの住人のように裕福ではないから個室は無理だ。息子は臨終に立ち会ってくれるだろうか。マザコン気味だからベッドの傍らで私の手を握り、泣きじゃくるに違いない。そう考えると、自分は幸せかもしれないと思う。
この世を一人旅立ったベッドの住人が少しかわいそうに思えてきた。どんなに成功者と言われ、お金がふんだんにあっても、最期は家族に捨てられたんだもの。
やってきたのは娘さん、いや良家の奥様然として化粧を完璧にした中年の女性。
「ご愁傷さまです」
との私の言葉に応えるでもなく言った。
「葬儀社の手配をすぐお願いします。家の格にあった、立派な会館のあるところを。そこへ送って」
思わずため息が私の口から漏れ出た。
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2004.3父の思い出
最後に対面したときは父はどんな表情だっただろうか。思い出せない。最後にいつも別れるときにするように、父が手を伸ばし、右手で握手したことは覚えている。その手が力強く、温かだったことも。
いま、ここに横たわる父は穏やかだ。私の父への想いをすべて吸い込んでいくようである。
額に手を置いてみる、指をもち上げてみる。
冷たいが、拒絶しているのとは違う。
私が胸の内で呟く言葉がスーッと父に通うような感じなのだ。
子ども時代のことが蘇る。私は半ズボンをはいた少年で、父はいまの私より若い。私は父の前でべそをかいていた。友人と喧嘩して、その言い訳をして父に怒鳴られたのだ。
学生時代に父に電話をしていた私がいる。電話の先で「身体にだけは気をつけるように」とだけ言い、父にも聞こえていただろう私の東京での行動について一言も言わなかった。そのときの家族に受け入れられている安堵感がいまも胸に広がる。
私が家の経済的事情で進学を断念した大学に孫である私の息子が入学したことを手放しで喜んでいた父。
五十年以上にわたる父と息子の関係が終わったのではない。これからも私は父の息子だと思う。父が私の心に共にいるかぎり。
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2004.5祖母の臨終
「オーママ」
記憶の最初から祖母は私にそう呼ばせていた。
幼い頃は、上京するたびに私の手を引いてデパートに買い物に行った。
家に帰るたびに、祖母のその甘い振る舞いに、娘である母が、眉を吊り上げて怒ったふりをしていた。
母は学芸会、運動会、家族旅行、何か行事があるたびに私を写真に撮り、田舎の祖母に送っていた。
祖母は写真が着くと必ず電話を寄越した。
「大きくなったね〜」
夏休みを田舎で一人暮らす祖母のもとで過ごすのは、成人した後も私の習慣となっていた。
すっかり髪は白くなり、脚は弱くなったが、その鼻筋のとおった顔には気品があった。
祖母が入院すると「あなたの顔を見ないと元気をなくすから」と母は私をけしかけ、週末の休みは田舎の病院訪問にあてられた。
それはいつもの土曜日だった。祖母の病室の前に行くと、看護師が走るように飛び出してきた。母が手を必死に握り締める側で祖母が荒い息を繰り返していた。肩が大きく上下する。私はベッドの側で立ちすくんだ。
祖母はスローモーションのように動き続け、そして静かになった。あの瞬間、祖母だけでなく、母も私も時間が止まった。
それがオーママの死であった。
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2004.7 夏の葬式
それは母の電話で知らされた。
高校生時代に世話になっていた叔母が死んだというのだ。
叔母の家は通学していた高校の側にあったものだから、雨が降ると傘を借りに駆け込んだり、よく立ち寄っていた。
母に容貌がよく似ていた。姉妹だから当然のことなのだが、それが「肉親」という理屈抜きの親近感を感じさせた。
寡黙な人だった。だが僕に接するときは微笑みを絶やさなかった。叔母の家にいるとき、これといった会話はないのだが、僕の気持ちはすっかり寛いでいたものだった。
一つには、叔母は何も説教じみたことも、詮索もしないでいてくれたからだろう。存在自体が認められている安心感があった。
ときには叔母の家で昼寝をし、家に帰った。
母の話によると叔母は急に倒れ、1週間眠り続けたという。母も含めて家族は眠り続ける叔母を見守り続けるだけだったという。
叔母の葬儀は夏の暑い日に行われた。
久しぶりに訪れた叔母の家は主をなくした寂しさがあった。
葬式だから人はせわしく出入りするのだが、僕の心には忘れ物をしたような空虚さがあった。
いまでも夏の暑さと流れる汗は、叔母の死を思い出させ、心を寂しくさせる。
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2004.9 10年
もう10年になる。
時間の流れるのは早い。
ついこの間のように思えるが、月日は確実に経過している。
「K君がもうダメらしい」
友人が電話で教えてくれたのがついこの間のことのようだ。
若い日に、お互いに高校生だった時代にK君と出会った。お互いに最初は相手を「生意気な奴」と思ったらしい。
高校は別だったが、サークル活動が一緒だったために、毎週のように顔を合わせていた。
早熟さにおいても競い合った。ガールフレンドとの仲の良さをお互いに見せつけるようにしていた。
いまから思えば青臭い議論をしょっちゅうしていた。受験勉強を放って、新しい本を競うように読み、読んだ本を論評しあうのだった。相手よりも深く理解したと見せ合うのだった。もちろん二人とも浅い理解しかしていなかったのだが。
中年になってからはお互いに友人を介して近況を知るのみで交流は途絶えていた。
そういえば葬式の日は雨が降っていた。
K君の死から10年。
歳を重ねるだけで自分は何をしたのか。
彼を思うと悔恨だけが胸に残る。
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2004.11 深夜の臨終
長い夜だった。
遅い仕事から帰り、食事をしていたとき病院から電話があった。入院していた(義理の)祖母の容体が急変したとの知らせだった。もう時間は零時を回っていた。
妻と義母を車に乗せ病院に向かった。深夜の道路は空いている。環状7号線をひた走った。
いつもは饒舌な女性2人が沈黙している。
妻が呟くように
「夕方までいたんだけど、状態が落ち着いていると先生が言うから帰ってきたのに…」
と言い、義母が
「あなたの責任ではないわよ。私の義母(はは)なのだから、私が泊まればよかった」
と、これまた呟くように言った。
交わされた会話はそれだけだった。
病院の駐車場につけ、裏口から入った。
祖母は荒い息をしていた。
意識はもうなく、ただ見守るだけであった。
深夜の病院は静かで、祖母の息だけが響いていた。
いつの間にか夜が明けていた。周囲が喧騒を取り戻し始めた。だが容体は変わらない。
死を待っている。それしかできない。ひたすら沈黙して待った。
午前11時半、大きな呼吸を繰り返した後、祖母が静かになった。動くことをやめた祖母は安らかだった。
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2005.1 霊安室
「何か用があったら、内線で呼んでください」
葬儀社の主が気を遣って部屋を出て行った。
白い布を取り、顔を露にした。
彼は眠っているように見えた。穏やかな表情である。
ただいつもアパートの一室で隣に寝ていたときは大きく胸が上下し、寝息をたてていたのに、いまの彼は静寂そのもの、沈黙そのものだ。
頬に顔を寄せてみた。冷たかった。全ての体温が奪われていた。じーっと触っていると温かみが戻るかなと思ったが変化がない。
3カ月前に医師に宣告されたときから覚悟はしていたつもりだった。
「今晩が峠です」
と昨夜医師に言われたときは、早く楽にしてやりたいと思っていた。
彼の最期は苦悶に満ちて、吐く息も荒々しかった。見るに堪えないと眼を逸らしそうになったが、魅入られたように手を握りながら彼の眼を見つめていた。
それは突然やってきた。手が脱力し、彼はひたすらの静寂になっていた。
だが彼が楽になることが、こういうことだとは思わなかった。
ひとりになったと思った。これからどう生きたらいいのだろう。
私には明日がない。
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2005.3 父親
その人を探した。どこかにいるはずだと思ったからだ。
だが、彼は姿を見せない。逆縁の場合、親は子の葬式には出ないという不文律がその地に昔からあることを思い出し、案じた。
彼が隠退したのは早かった。50歳を過ぎたところで家業の建築業を次男に譲った。その腕を知る人間には惜しまれたが、目が衰えたら一人前の仕事はできない、というのが彼の言い分であった。
彼は次男の仕事や事業には一切口を挟まなかった。彼の日常は、早くに恵まれた孫の相手と偶の競馬場通いであった。寡黙を絵に描いたような人であった。
その彼から電話があったのは3カ月前。
「息子が末期のがんと診断された」
とだけ告げ、絶句した。
昔の彼を彷彿させるように、いい腕と気風のよさで近隣から信頼されるようになっていた息子であった。落胆は痛切であった。
最後のお別れの時がきて、遺族は柩の周囲に集まるが、彼はいない。 すると孫娘が式場を飛び出して、ジャンパー姿の男の手を引き、戻ってきた。彼だった。やつれ、痩せて往時の面影もない。未来の希望だけではなく現在の生きる術も何もかも喪った男は、息子の死顔を見るでもなく、柩の前に呆けて立ち竦むばかりだった。
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2005.5 母の臨終
そこは湿った空気が淀んでいるようで、母をいつまでも置いておくにはふさわしくない空間だった。
地下室というせいもあるのかもしれない。深い静寂が淋しさを感じさせる。
先ほどまでの病室での喧騒が嘘のようだ。
医師、看護師が忙しく部屋を出入りし、僕は廊下へと追いやられた。
入っていいと言われたら、母が表情を失い、ベッドに横たわっていた。
あれだけ痛がっていたのだから、こうして静かにできるのは、母にとってよかったのだろう、と思うことにした。
その後、母は看護師の手で死後の処置を施され、口紅を薄く塗られ、霊安室に運ばれてきたのだった。
昨日から一昼夜病室に付き添った時の様子とはずいぶんと異なる。あの時は母は髪をふり乱し、目を宙に浮かせ、咳き込み、また肩で息をしていた。苦しそうで、その表情は僕を不安にさせた。僕はどうしていいかわからず、母の手をひたすら握っていた。
母の人生にいいことってあったのだろうか。仕事をして、まだ幼かった僕を養育させるためだけの人生だったような気がし、僕が母の不幸の源ではなかったかと、いつも感じていたことをいまも思った。
迎えの葬儀社が早くくればいいのにと思う。
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2005.7 自死
携帯電話が鳴った。
発信者は父であった。
「健太か。すぐ帰れ。美夏が死んだ」
「えっ!どうして?」
「わからない。何にもわからない。これから名古屋へ行く」
「待ってくれ。どうして姉さんが?」
「いいから、すぐ家に帰ってくれ」
姉の美夏は名古屋の大学の院生で、一人暮らしをしている。先月に家に帰ってきたときは普段と様子が変わらなかった。痩せてはいるがけっして病弱ではない。
家に帰ると、髪を振り乱した母が父に向かって怒鳴っていた。
「違うって、何度言ったらわかるの。警察の間違いよ。美夏が自殺するなんて!」
病死だって信じられないのに、ましてや姉さんが自殺するなんて、嘘だろう。
同行することを頑なに拒否した母を残し、父と僕は新幹線に乗り名古屋へ行き、タクシーで警察へ行った。
「確認をお願いします」
警官がストレッチャーの上の白い布を退けた。
現れたのは姉の顔だった。
父も僕も無言だった。
母に電話した。
電話の向こうで母はまた叫んだ。
「嘘よ!違うわよ!」
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2005.9 家族葬
「加藤さんどうしているかな」
「知らなかったの。加藤さんは先月亡くなったよ。すい臓がんだった」
「えっ、昨年会ったときには元気だったのに」
「急だったらしいよ。見つかったときには手遅れだったらしい。でもご家族がそれはそれはよく看病したらしい」
「それであなたは葬式には行ったの」
「いや、行かなかった。ご家族だけで葬式はしたいという希望だったので。本人もそう言い遺したらしい。働くだけ働いたから会社には恩義は返した。最後くらい家族で見送ってほしい、と。見舞いも全部断ったそうだ」
「加藤さんは仕事熱心だったが、家族想いだったからな。加藤さんらしいな」
「娘さんがいたろう。彼女は仕事帰りに毎日見舞い、最後の数日間は休暇をとって看病したらしい」
「奥さんは病弱と聞いていたな」
「でも奥さんは気丈に毎日病院に詰めたようだ。でも、今は落ち込んで、誰にも会いたくないという感じ、とのことだが」
「あの夫婦、親子は仲がよかったからな。昔加藤さんの家にうかがったとき、あまりの仲の良さに嫉妬のような気持ちをもったよ」
「身につまされてね。私も今さらとは思うが、少しは家族との時間を大切にしようと思っているよ」
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2005.11 家族
母方の祖母が危ないらしい。
母はこのところ会社帰りには2駅先の病院に寄り、深夜にタクシーで自宅のマンションに帰る日々を送っているらしい。
「私も病院に行かなくていいの?」
電話で母に聞いたら
「いいわ。来ても眠っているだけだから」
祖母は叔父の家に引き取られており、叔母の洋子さんが昼間、母が夜と分担して看病している。叔父の実さんは、実の息子であるが、病人の看病は妻と姉にまかせっきりのようだ。
祖母が死んだという電話が母から入ったのは出勤準備をしているところだった。
「3時頃かな。静かに息を引き取った。実と洋子さんと3人で看取ったよ。でも幸せよ、母は。看取る人がいたんだから」
そうか祖母は幸せだったのか。でも孫である私は祖母にとって家族じゃないのかな。
考えてみれば病院にお見舞いにも行ってないじゃないか。悪いのは私か。
「今来なくてもいいからね。実が『どうしても』と言うから実の家に運んだけど、まだ準備はこれからだし、会社退いてからでいいよ」
ふと思った。今夜行くとして私は何を着ていけばいいんだ。黒のワンピースかな。
祖母の死なのに、何故か胸に迫るものがない。遠い親戚の死を聞かされたように、他人事に感じている自分がいた。
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2006.1 晩年
「晩年」
かつては40歳になった頃に考えた。
いまは何歳になったら考えるのだろうか。
私は「還暦」を迎えた。
同級生は「定年」である。
人生80年時代であるから20年の余生がある、とはいってもそれは平均であるし、誰にも保障されているわけではない。あったとしても過去の20年と同じだけの内容をもった20年があるわけではない。
身体も頭もそして感性も老化していくだろう。
その老化していく自分にどれだけ適応できるのか、それが課題なのだろう。
晩年を意識するようになってはっきりしたことがある。
死は怖いものではない、ということだ。
何もほしいものはない。
次代に何を残していくか、それだけが課題のように思える。
同級生の既に何人かがこの世を去った。自分もいつかはわからないが退場していく。きれいに去るわけにはいかないだろうが。
だがわれわれの晩年は自分のことだけを考えるわけにはいかない。まだ見送るべき老親がいるのだ。
最近、息子と話す時間が多くなっている。息子に諭され、叱られ、それを喜んでいる自分がいる。
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2006.3 介護の後
「やっと終わった」
母が眼を閉じた時、心底思った。
肩が痛いというので毎日40分の肩揉み、高齢のため肉は固くなり、肌は乾燥しているので、全身の力を入れても満足しない。
深夜でもおかまいなしに自室から電話をかけて呼び出す。
独りでいるのが不安、とちょっとの外出にもうるさい。
一日一日、母の世話でエネルギーが吸い取られ、疲労だけが蓄積されていた。
「母は私を自分の世話のために産んだのか」
そうも思ってしまっていた。
昨夜から、危篤になった母を看取りにきた妹は、号泣しているのだが、私にあるのは虚脱感だけである。
傍にきた夫が言った。
「お母さんも、あんたたちもご苦労さま」
辛かったよね。母も私も、そして妹も。
母は最後の最後まで死ぬことが不安だった。独りでいられなかった。不安が昂じ、怯えていた。身体もガチガチに固くなって痛がっていた。そして私も、母の介護で余力がもうないほどだった。妹も遠いところをよく通ってくれた。
もう一月介護が続いたら、私はきっと寝込んでいただろう。
肩に置かれた夫の手が温かだった。
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2006.5 答礼
焼香の順番がきた。
遺族席を見やると、彼女がハンカチを手に握りしめて、しかし、しっかりと顔を前に突き出すようにして、会葬者に挨拶していた。隣に座ったお兄さんも、顔は青白いが、忙しく答礼を繰り返していた無理しなくてもいいのに、と思った。
私だったら、きっと挨拶なんてできないだろう。周囲なんか目に入らず、号泣しているだろう。あるいは泣きすぎて呆けているかもしれない。
まだ60才の母親に死なれてしまうということがどういうことなのか。自分自身の母が老いとは無縁に元気でいるだけにわからなかった。私だったら気が狂うのではないか。
健気と表現すべきなのか、母親を喪った兄妹の姿を、痛々しくて正視できなかった。
煙が目に沁みる。正面のお母様の写真があまりに清々としているので、二人の悲しみがどんなにか深いだろうに、と思い、焼香しながら涙がこみ上げてきた。
生前にお逢いする機会はなかったものの、ふだんの彼女の話で、くよくよしない、溌溂とした人であるとは聞いていた。
焼香を終えた私は二人の前に立ち、頭を下げた。とても二人の目を見ることはできなかった。きっとあるであろう目の底の深い絶望を私は見ることができなかった。
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2006.7 子ども
ニュースを聞いていて、私は怒り狂うことがある。それは、親が、娘、息子を殺したときである。
そこに深い闇があることは想像がつく。そしてその闇がとてつもなく深く、第三者がどうのこうのと容易には介入できない事情があることもわかる。
だが、である。しかし、である。
子どもを親の都合で殺すことは赦されない。
子どもはいったん生まれた以上は、親の付属物ではけっしてない。独立したいのちなのだ。
親が面倒見られなかったら、子は社会が面倒を見る。それは不十分な環境かもしれないが、子は心に傷を抱えるであろうが、何とか生きる環境は与えられる。これが現代日本社会の約束事である。
たとえ親であろうと子どものいのちを自由にする権利はない。
育てるのがきつい、厳しい場合もあるだろう。そのときは子育てを放棄し、社会に委ねたらいいのだ。子を捨て、自分が親であることをやめるよりも、親だからと子のいのちを抹殺する罪のほうが何百倍も大きい。
もう一つ、私が怒り狂うのは、親による乳幼児の虐待である。
もう、いい、悪いという問題ではない。虐待する親に対しては、親であることの権利を剥奪すべきである。
子どもには安全に生きる権利がある。
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2006.9 ねんごろ 
その日は暑かった。
本堂に入れなかった人たちは木陰を求め、佇んで式の進行を見守った。
本堂内での様子はうかがえない。スピーカーを通して聞こえる音に耳を傾ける。
いつもの葬式と様子が違うのは、手元に詳しい解説付きの式次第が載せられていて、僧侶が式の進み方を説明してくれたことだ。
音が聞こえるだけではあったが、外にいる人も葬式に参加していた。
4人の僧侶がかわるがわる故人に向かって唱える。懇ろに式が進められているようだ。
すると導師が故人に向かい、その生涯を語りはじめた。故人の生涯について詳しく述べ、故人の作品、人柄が語られる。そしてそのあまりの突然の死の様子が語られた。
私たちが送ろうとしている人、その全体像が会葬者皆に共有されている、そんな空気が全体に広がっていく感じがする。
死者が赴くという霊山浄土へ導く導師の引導は、導師だけではなく、私たち皆が送るのだ、という不思議な一体感を醸し出していた。
告別式では故人ゆかりの鼓童の和太鼓が打ち鳴らす音に合わせ、堂内に入っての焼香が行われた。中央の位牌の横の故人の写真がかすかに微笑みを湛えている。
別れを告げるということの厳粛さ、故人への尊敬の念が私の心を支配していた。
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2006.11 自死−遺された者
その人が自死した、と聞いたのは友人の携帯電話からであった。
「自死って、どうして…」
信じられなかった。
仕事上の先輩で、いつも仕事に真剣に取り組んでいた。仕事のために残業も厭わず、噂では月150時間を超えていたとのこと。そういえば、ここ数日は姿を目にしていなかった。
「風邪ということで休んでいたらしいが、昨日の朝家族が家を出た後の出来事らしいよ」
頭に「過労死」という言葉が浮かんでだが、それは違うと思った。その人は身体が頑健であったからだ。
考えたが、その人が自死するような原因も前兆も思いつかなかった。
後輩の相談にも気軽にのってくれる人で、私も仕事上の悩みをよく聞いてもらっていた。娘さんの写真を携帯電話の待ち受け画面にしており、ときどき自慢もしていた。
2日後、友人と連れ立って、その人の家の近所の斎場で行われた葬式に参列した。
最後に挨拶に立った夫人は「自殺するなんて、思い当たることがありません。どなたか知っている方がいたら教えてください。教えてください…」と最後は参列者に向かって懇願するように言った。
霊柩車の出棺を知らせるクラクションの音が淋しく、やるせなかった。
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2007.1 父との別れ
葬式は嫌いだ。
皆が黒い服に身を包んで、暗い顔しているのが嫌だ。
涙があちこちで見られるのも嫌だ。
僕はもう充分生きた。そりゃもっと長く生きた人もいるが、僕としては充分だ。
死ねばもう苦しまなくてもいい、というのがいい。痛いのはもう勘弁してほしい。
もう僕にはこの世では何もできないのだから。
それなら、せめて明るく送ってほしい。
昔の人は晴れ着を着て、死者を送ったというが、僕もそうしてほしい。
皆ももうこの世の僕に執着しないでほしい。
点滴で生かされるなんて勘弁。
僕はもう皆にしてあげることはないのだから。
でも、もし可能なら最期にしたいことがある。
それは皆と握手することだ。手の温もりを感じて別れることができれば言うことない。
手を握っていておくれ。眼を瞑るまで。

父さん、あなたはどこまで勝手な人なんだ。
あなたは死ねば、それで終わるだろう。
しかし、遺された僕たちはどうなんだ。
あなたの躯の前で笑っていろと言うのか。
泣いちゃいけないのか。
笑って別れることができたらどれだけいいか。
でも、僕にはできない。
それは、あなたは僕の家族だから。
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2007.3 旧友の葬儀
私はとまどっていた。
葬儀にはたして参列したらいいかを。
彼女と別れたのは30年も前のことだ。
その後、彼女は結婚し、一女をもうけた後、離婚し、いまは娘も独立して一人暮らしをしていた、とは彼女の友人の話である。
働いていたが、がんが発見された時は手遅れだったという。
昔、別れた後は、共通の友人を介して消息を聞くのみ。
彼女は私の本を読み、「こんなことを考える人になっただなんて」と感想をもらしたというが、それが否定の意味か、肯定の意味か、わからない。
入院したと聞いた時、よほど見舞って、ビックリさせようかと思ったが、その病状の悪さを聞いて、やめておこうと思った。
私は無力だった。30年前に無力だったように、いまも彼女に対しては無力だった。
逡巡を重ね、私は葬儀に出た。
昔の見知った友人が数人固まって座っていた。私は後ろの席に座った。
彼女の写真が眩しかった。昔を充分に偲ばせる笑顔だった。そして前席には昔の彼女そっくりの娘さんがいた。
ふと「歴史」という文字が頭に浮かんだ。
彼女には、彼女の歴史があったのだろう。それに比して、私には「歴史」があるだろうか。
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2007.5 がん死
斎場には1時間前に着いた。まだ受付の用意もされておらず、式場を覗いたら、柩を中央に出し、親族がお別れしていた。
娘さんらしい2人の女性が咽び泣いていた。
覚悟をしていたとはいえ、1月前までは病を押して仕事をしていたのだから、諦めろと言うのが酷である。
彼とそっくりの男性が出てきたので訊いたら、やはりお兄さんだった。
7年前に大腸にできたがんを切り、次に肝臓に転移していたので切除し、その後また肺に転移した。彼は手術を終えるたびに小休暇するだけで仕事に復帰していた。
4月に入り、身体がきつかったのだろう。自宅で療養。20日に再三の入院。もう手術を施す余地はなかった。「本人には肺炎と伝えていました」
5月5日午後3時に家族が見守るなか、彼は息を引き取った。59歳であった。
彼の晩年はがんとの闘い、そして仕事面でも紆余曲折があった。
だが、そうしたしんどさを抱えながら、彼は穏やかであった。
彼を知るエンバーマーの手で施術された彼の顔は逞しく、凛としていた。
夫人と娘さん2人と話すと、彼に対する愛情が溢れているのを知り、一瞬彼を羨ましく思ってしまった。
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2007.7 母の介護・死・葬式
父親が死んで母親が残ったときは、父親の死は母のものであると思っていた。 その母が老い、介護を必要とするようになったとき、その介護は同居する子である自分の責任と自然に納得できた。
夜中に頻繁にベルで呼び起こされ、始終面倒を見るのは確かに苦痛であり、自分の体力への不安も大きかった。
子どもの世話には未来の希望があるが、老親の世話には未来がなかった。そのため深い疲労感が身体に滲むような状態であった。
その母が「ちょっと眠ろうかしら」と呟き、そのまま息を引き取った。
深夜であり、家族にも、きょうだいにも、医師にも報告せず、一人その死を看取った。 以前から自分が看取るという覚悟があったから、その時がきたのを自然に受け入れて朝までベッド脇に佇んでいた。
葬式も母が望んだように、家族だけで営み、送った。母が嫌った親戚を排するためというのが口実であったが、あくまで自分が送るという覚悟がさせたことである。
葬式が済んで全ては終わったと思った。しかし、終わりではなかった。きょうだいの問題が浮かび上がってきた。親という箍が外れたとき、きょうだいという絆も脆いものになっていた。
親の喪失はかつての家族の危機をもたらした。
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