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目出度さもちゅう位なりおらが春  


   目出度さもちゅう位なりおらが春

 この句は、小林一茶が五九歳の文政二年(一八一九年)の正月を迎えた時のものである。この句を理解するにはまず〈ちゅう位〉という信濃地方の方言を知らなければならない。あやふやとか、いい加減とか、どっちにもつかず、という意味である。それだけでは十分でない。この句の前にある文を読まないと一茶がこの句に込めた真意が見えてこない。

 から風の吹けばとぶ屑家はくず屋のあるべきように、門松たてず煤はかず、雪の山路の曲り形(な)りに、ことしの春もあなた任せになんむかえける

 こんな文があって、この文の〈あなた任せ〉という意味が重要な役割を果たしている。ここでの〈あなた〉とは阿弥陀如来のことで、如来に全てお任せするという意味で使われている。要するに、弥陀任せのわが身であるから、風が吹けば吹っ飛ぶようなあばら屋でもあるし、掃除もしないで、門松も立てないで、ありのままで正月を迎えている。だから目出度いのかどうかあいまいな自分の正月であると歌っているのである。

 私も正月だといって改めて何かしたことはない。普段通りに正月を迎えている。日々〈今、誕生〉と新しい日を迎えているような感覚があって、正月だから特別に何かしなければならないと思ったことはない。それが良いのか悪いのか考えたこともないが、長年続いている。
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 今日、一茶の句にあるような、たとえば良寛の生き方のような、ありのまま生きる価値観は廃れて久しい。
 そのような生き方に憧れていても、何かといえば、こうあるべきだと押しつけてくる。雪の山路を曲り形りに進もうとすると、除雪機で雪を除いた道をつくって、その道を行けという。市場経済に乗った文化的快適生活はこうあるべきだと押しつけてくる。
 教育現場でもこうあるべきだ、が優先され、その行き過ぎがいじめや自殺や暴力事件の要因になっているような気がしてならない。

 過去に福沢諭吉は『学問すゝめ』を著し「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」という有名な言葉を残したが、その同じ本の中に「無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は、飲食と寝ること糞をして起きることのみ(中略)かかる馬鹿者を扱うには、とても道理をもってすべからず、不本意ながら力を以って威(おど)し、一時の大害を鎮むるより外に方便あることなし」と書いている。要するに叩きつけてでも学問をすすめるべきであるということである。近代国家建設のために「学問」の大切さを論じたのはよくわかるが、その実現のためには力を以ってしても、というのは行き過ぎであろう。

 ちょうどこの稿を書いていたら、テレビで大阪の高校生がバスケット部の講師に殴られ、そのことを苦に自殺した事件が報道されていた。学校も講師も己の地位や名誉を優先し、生徒への愛のかけらもない鞭で恐喝し、悲劇を招いたといえる。行き過ぎた暴力行為の何ものでもない。

 仏教は中道を説く。中道とは行き過ぎを戒める教えである。また、あなた任せにありのまま生きるとは、人間社会の価値観でなく、自然の摂理に遵って生きることでもある。
 そんな生き方をしたいものだと年の初めに思ってみたが、思いだけで日は過ぎてゆく。



 『SOGI』133号 青木新門


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