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碑文谷創(2006.3) 

序 あってはいけないサービス
1.「葬祭サービス」の起源と変遷
2.葬祭サービスの現在とその問題点
3.葬祭サービスの基本

序 あってはいけないサービス

■寺からのリベート脱税事件

 新聞が「お布施還流 所得隠し 都内の葬儀会社、7年間で8億円」と報じた。その記事を企業名を伏せて転載する。

 葬儀会社T(東京都)が東京国税局の税務調査を受け、05年6月期までの7年間に約8億円の所得隠しを指摘されたことがわかった。僧侶に読経の仕事を紹介し、お布施の一部をリベートとして受け取りながら申告していなかった。追徴税額は重加算税を含め約3億円に上るとみられる。
 関係者によると、同社が葬儀の読経の仕事を僧侶に紹介し、僧侶らはお布施の一部を同社関連法人に渡していた。関連法人はその一部を受け取り、残りを僧侶らが属する宗派への上納金名目で、東京都内などの同社関連の3宗教法人に移していた。
 宗教法人は税制上の優遇措置を受ける公益法人で、お布施は非課税。このため同社関連の宗教法人は、上納金を所得として計上していなかった。これらの宗教法人は休眠状態だった際、同社が買収しており、東京国税局は宗教法人を使った課税逃れと判断し、重加算税の対象とした。
 同社は「担当者がいないので詳細が分からず、コメントできない」と話している。(3月6日毎日新聞)

 私はこの事件を、国税局とは異なり、次の2点で問題であると考える。
(1)葬祭事業者が宗教法人を所有すること。
(2)お布施からリベートをとること。
 国税は、あくまでリベートの所得隠しを問題にしているが、私は元凶は(1)と(2)であると考える。

■守られるべき葬宗分離

「葬祭サービスはトータルサービス」と言われて久しいが、葬祭サービスと宗教の間は不可侵でなければならないのではなかろうか。葬霊分離(葬祭事業と霊柩運送事業の分離)ならぬ「葬宗分離」でなければならないだろう。葬儀に関わる全てをビジネスの観点で見てしまうとこういう事態が発生する。葬祭業の近代化の名のもとで、葬祭業のあるべき姿を見失ってしまった極端な事例であるとして私は理解した。

 宗教法人を手にした事業者はT社だけではない。互助会の大手にも見られる。
 ある事業者は「本堂も再建してやったし、葬儀も紹介してやる。(買収された)寺の住職も喜んでいる」と誇らしげに語っていた。斎場の最上階に「○○寺別院」という看板が掲げられているのを見たこともある。

 宗教をビジネスの対象とすることは葬祭サービスの逸脱であると思う(単純に利益追求するなら触手が働くであろうが)。
 宗教の本質は信仰である。この原則を忘れ境界線を踏み越えたとき、葬祭サービス自体にも大きな歪みが生じるように思う。
 残念なことに、都市部では寺院へのお布施からのリベート問題がなくなっていない。東京だけではなく、関西でも報じられたことがある。

 大都市部では、いわゆる宗教的浮動層が多く、檀那寺と檀家という関係を結んでいない人々が多い。そうした人が遺族となったときに、葬儀を依頼すべき檀那寺がないものだから、葬祭事業者に僧侶の斡旋を依頼するケースがある。そういうケースが多いことから、葬祭事業者は予め僧侶のネットワークを作っておく。僧侶にもいろいろいるのが現実であるから、遺族の身になって葬儀を勤めてくれる僧侶を予め選んでおくことは必要であろう。だが、それはあくまで遺族のためであって、葬祭事業者のためではない。

 しかし、このネットワークを作るにあたって、葬祭事業者にとって都合のいい選別が行われている現実が一部にある。
 葬祭事業者の言うことに聞き従う僧侶であるか、あるいは、紹介手数料(リベート)を払う僧侶であるか。
 一部に見られる、こうした宗教者を支配下におくような葬祭事業者の姿勢は改善を要するだろう。

 葬祭事業者と宗教者の関係は、遺族(あるいは故人)のため、という共通目標はあるが、両者の関係は緊張関係にあるべきである。どちらが上あるいは下ではない。葬儀の演出のために宗教儀礼を損なうことがあってはならない。

■「布施」への誤解

 また布施は、僧侶の説き、なす法施(ほっせ)に対して遺族が応える財施という関係にあるもので、宗教サービスの対価ではないのである。布施という領域においては葬祭事業者が間に入る余地がない。
 いい僧侶を紹介するのは、遺族の身になるサービスであるが、それをビジネスの領域にしてはならないだろう。これは葬祭事業者の問題だけではなく、それに甘んじる、あるいは自ら求める宗教者が現にいるという問題でもある。

 宗教のもつ独自性に対する理解を欠いた、宗教もまたビジネスにしようとする葬祭事業者と、それを受け入れる宗教者は弾劾されるべきである。  最近、この業界に進出した「革命児」の中にも、この葬宗分離をわきまえていない人も見られる。
「まだまだ不透明なお布施にガマンしますか?」と消費者に呼びかけ、「H社は業界初の明瞭なお布施価格です」とホームページに書いている。

 お布施は料金ではない。たとえそう誤解している宗教者が多数いようが、けっしてそうではない。それぞれの遺族がそれぞれの生活に合わせて、精一杯のお布施をすることが大切なのではないか。百万円なら高く、10万円なら安いわけではないだろう。

 しかも俗名15万円、信士・信女20万円、居士・大姉35万円、院号50万円と表示。いかにも「安いだろう」と謳っている。これは問題となっている「戒名料」という構図をそのまま踏襲したものである。戒名の位階によって料金化されている。これでは「お布施」ではなく「料金」である。全日本仏教会も強く否定した「戒名料」「院号料」である。
「消費者のため」という名の大きな誤解である。ここにはビジネスだけがあって、信仰への配慮の欠片(かけら)も見られない。これのどこが「新しい」というのか。

 葬祭事業者は遺族のよき相談相手にはなっても、宗教に手を突っ込むべきではないように思う。また、宗教者も葬祭事業者に手を突っ込まれるような情けない状態から脱しなければならないと思う。

■「宗教」をどう考えるか

 葬祭サービスを考えるとき、宗教に対する姿勢を見ると、その事業者の質が見えてくるものである。いくら「いいサービス」「適正な価格」をうたおうと、宗教に対する姿勢がいい加減なところは、ほんとうに遺族のことを考えたサービスになっていない。遺族のことを表面的ではなく真に考えたならば、こんないい加減なことはできないように思う。

 宗教の大切さを理解するということは、死がもつ意味の大きさを正当に理解することにつながるからだ。ひいては遺族の悲しみを理解することになるからだ。
昔の葬祭業者が「葬儀は金じゃない、心だよ」としみじみ語っていた。その心根を忘れてはならないように思う。

葬祭サービスの「近代化」は必要なことである。それは生活者である遺族の状況が変化したからである。また、因習からの脱却も大切なことである。しかし誤った「近代化」は葬祭事業者の品性を失わせる。
「トータルサービス」という名のもとに、葬祭事業者が宗教の領域まで進出したり、「明瞭会計」の名のもとに戒名ランクを作ったりすることは、葬祭サービスとして明らかな逸脱だろう。

 一部のマスコミが「葬儀の暗部を暴く」というような企画を作ることがある。それは死をタブーとする意識が、依然としてあることの表れである。そこには「関係者」なる人物が登場し、いかにも全部の事業者が実際には悪いことをしているような解説をする。あるいは自分たちだけは違うと宣伝する新規事業者がいる。たくさんの葬祭事業者を知っている者としては苦々しく思っている。

それが真実ではけっしてない。多くの葬祭事業者は善良で、その割合は他の事業と比べてけっして低くはない。
だが、今回の報道で明らかになったように、宗教との境界線を大切にしない、倫理を踏み外した一部事業者がいることが問題で、これが全体のイメージ悪化を招くものとなっている。

 寺と葬祭事業者の関係は腐れ縁ではない。よきパートナーとして緊張ある関係を築いていくべきなのである。そうでないと葬儀の宗教離れ、葬儀の無意味化がいっそう進行するのではないか。それによって結果として不幸なのは、弔いを失くした遺族なのであることを銘記しなければならない。


1.「葬祭サービス」の起源と変遷

■サービス業

 いまは多くの葬祭事業者が「葬祭サービス」という言葉を何の不思議もなく用いる。「葬儀はサービス業である」と。
「サービス」という言葉を単に「ただ」「無料」とだけ誤解している人もいるので、少し詳しく説明しておこう。「サービス」には「奉仕」などいろいろな意味がある。
 ちなみに広辞苑では「サービス」の定義に次のような記述がある。

 物質的生産過程以外で機能する労働。用役。用務。

 これが今回扱う「サービス」の定義である。つまり物を作る労働ではない、ということである。そして「サービス業」についても記述してある。
 日本標準産業分類の大分類の一。旅館・下宿などの宿泊設備貸与業、広告業、自動車修理などの修理業、映画などの興行業、医療・保険業、宗教・教育・法務関係業、その他非営利団体などを含む。

 ちなみに産業は大きく3つに分けられる。
第一次産業 農林水産業など直接自然に働きかけるもの
第二次産業 産業のうち鉱業、鉱産物や農林水産物の二次加工、工業では製造業と建設業
第三次産業 商業・運輸通信業・サービス業など、第一次・第二次産業以外のすべての産業

 つまりは物作りではない産業が第三次産業である。
 葬祭業がサービス業であるのは自明のことではなかった。昔は葬具を作って販売していた時代もあったのだから、第二次産業であった時代もあるし、第三次産業とはいえ、商業に分類された時代もあった。
 葬祭業とは、物ではなく付加価値を提供する、と認識されたのはたかだか30年前からのことである。

 そこで盛んに言われたのは「ハードからソフトへ」という言葉であった。葬具作りや葬具・造花等の販売が業の中心ではハード(物)中心であり、ソフト、つまりお客に安心と満足を提供するものでなければならない、という議論であった。

■「葬儀はサービス業」という主張の背景

「葬祭サービス」なる用語が登場するのは戦後である。
 用いた人は「葬祭業は葬具賃貸・販売業からサービス業に変わらなければならない」という意味をこの言葉に込めた。
 もう一つは、「葬祭業は遺体処理業ではない」という主張であった。これには少し説明を要するであろう。

 戦後アメリカとの交流を行うことによって業界人を驚かせたのは、アメリカの葬祭業者は市民から尊敬される存在である、ということであった。日本でも葬祭業者は尊敬される存在にならなければならない。つまりは社会的地位の向上を図る必要がある。
 このときの日本は葬祭業者に対する社会的偏見が満ちていた。社会的に差別される存在であった。この社会的差別を払拭することが悲願となった。

 社会的差別の元凶の一つは、葬祭業=遺体処理業=死穢(しえ)に染まっている者というものであった。そのため「葬祭業は遺体処理業ではない。サービス業である」という主張を生んだ。ここにはいたずらに差別されたくないという悲痛な願いがあった。

 いまは第三次産業が隆盛の時代であるが、ちょうど高度経済成長期を迎える頃は、第三次産業が注目を浴びはじめた時代であった。この時代の流れに乗っていかなければならないという向上心が「葬祭業はサービス業である」という主張に体現されたのである。
 また、いまでも葬祭業の多くは中小零細であるが、当時も中小零細が多く、家内工業的経営がほとんどであった。そこで「サービス業」という掛け声と同時に「経営の近代化」が叫ばれたのである。

■葬祭ディレクター制度のもつ意味

 アメリカの葬祭業者との交流の中で日本人の業界人の眼を引いたのは、エンバーミング(遺体衛生保全)であった。しかし、その高度な技術と専門性を見て思ったことは、将来的には日本でも葬儀専門の教育機関をもたなければならないという、当時では夢のような構想であった。また、刑法190条死体損壊罪に抵触するのではないかとの危惧もあり、早急な導入は見送られた。

しかし、その後、アメリカのエンバーミングに対抗するように、日本の先進性を主張したのは火葬率の高さであった。
火葬においては日本は先進国である。もとより当時(昭和50年代)も現在も日本は火葬率は世界一であったので、その後は「日本は火葬国なのでエンバーミングは不要」という意見が大勢を占め、日本へのエンバーミングの導入は1988年まで待たなければならなかった。

 アメリカの葬祭業者の社会的地位向上を保障しているのがフューネラルディレクターという資格制度であった。これが日本では最初は葬祭業者の登録制の主張となって現れた。しかし、これは昭和30年代以降、互助会をはじめとする葬祭業への新規参入の規制の意味ももったために、現実的には有効な動きにはならなかった。しかし、この資格制度への願いは業界の底流に深くあり、これが10年前の1995年に労働省(当時)認定葬祭ディレクター技能審査制度という形で結実するのである。

 サービス業というのは人材が核になっている。人材養成が要である。これがお客に提供するサービスの質を左右する大きな要因になっている。葬祭ディレクター技能審査が始まって10年。これが果たした意味、役割は大きい。葬祭ディレクターの誕生は、日本の葬祭サービスの質を著しく向上させ、ひいては葬祭業の社会的地位向上に貢献している。葬祭サービスを論じるとき、葬祭ディレクター技能審査という、業界の垣根を越えた、開放されたシステムの存在を抜きにはいまや語れないだろう。

 いまは制度上可能になってはいないが、将来的にはこの資格が研修等による更新制度をもてるようになればいいと思う。全体の水準維持のためには是非ほしいものである。そうすればよりいいシステムになるだろう。

■「葬祭サービス」は誤訳から?

「葬祭サービス」という言葉は、葬祭業の業態改革、近代化、社会的地位の向上を象徴するものとしてあった。この言葉、実は当時の提唱者の言によれば「フューネラル・サービス」の直訳であった。これを「葬儀のサービス」と理解したのである。

 辞書を調べると、この場合の「サービス」は「サービス業」のサービスではない。「礼拝」を意味する。宗教儀礼である。だから直訳するならば「葬儀式」とでもなるべきである。葬儀自体が神への礼拝として、仏教的に表現するならば法会(ほうえ)として行われることを表している。もちろん現代アメリカではもっと世俗的に理解されているが、原義はそうである。

「隣人にすることはすなわち神にすることである」ことから「サービス」が奉仕という意味になったり、お客への心を込めた接待になったり、軍務や法務への厳粛な勤めという意味になったのである。
 こういう誤解を経たものであったものの、「葬祭サービス」という言葉は、葬祭業の未来を表す言葉として誕生したのであった。


2.葬祭サービスの現在とその問題点

■葬祭サービスは接客サービスか?

「葬祭サービス」が唱えられることで各社が取り入れたのが接客サービスの訓練である。
 これ自体はまちがっていない。かつての葬祭業においては遺族や会葬者に対して「お客」という認識が乏しく、その接客態度は拙劣な場合が少なくなかったからだ。
 祭壇とか葬具の提供が主任務だったから、という理解もあるが、基本的な従業員教育が不足していたことは否めない。

 挨拶ができる、お辞儀がきちんとできる、きれいな歩き方、所作ができる、というのは生きた人間を相手にするサービス業の基本である。
 きちんとした接客態度を身につけることは当然であるし、それがまだできていない企業も残念ながら少なくない。

 実際、葬祭事業者を訪問したり、電話をかけたりすると、そこの従業員教育のレベルがよくわかる。視線の向け方、近寄る動作、言葉遣いなどから、受け取る側には快、不快といった感情がはっきり出る。そういう意味では接遇のよしあしは怖いものである。対人関係の最初の印象を決めかねない。

 じっくり話をしたらいい人だった、では遅いのである。接客がきちんとできない人は、最初にお客の前に壁を作っているようなものである。事実、会ってよく話してみればいい人が多い。接遇の基本が身についていない人は損するのだ。

 だから接客サービス、接遇技術を訓練し、身につけることは確かに基本中の基本である。
 では葬祭サービス=接客サービスか、といったらそうではない。そうではない、と強調するのは、接遇は見事なのだが、そのサービスの内容が貧困であるケースがまた少なくないからである。

■葬祭コーディネータ説

 1980年代より葬儀社の葬儀における位置付けが変化してきた。
 どう変化したかというと、あたかも黒子が主役になったかのように映るようになった。
 葬儀が地域共同体主宰のものから個人化が進み、葬儀社の働きなしに葬儀が動かなくなったのである。

 葬儀に対して、かつては親族が、あるいは寺が、あるいは地域がもっていたイニシアチブが、葬儀社の側へ移ってきたのである。
 そこで90年代から言われ始めたのが葬儀社コーディネータ説である。
 葬儀社は、遺族、親戚、地域、寺のそれぞれの利害を調整し、全体をうまくまとめていくべき存在とならなければならない、という主張である。

 これも理のある説である。葬式とは遺族、親戚、地域、会社、寺といった各方面の利害や意向がぶつかる場になりかねない。それぞれの中で力の優劣がはっきりしていればいいのだが、力が拮抗していると、なかなかまとまらない。そこで各方面にうまく根回しをして、一定の方向づけを行う役目を葬儀社は期待されることになる。
 地域の団結があったり、寺の権威がはっきりと認識されていた時代にはなかった役割である。

 いまでも遺族の意向と地域の意向が対立し、どうすればいいのか悩む葬祭従事者の話はよく耳にする。こういう調整を期待されるというのは、期待される側にとっては悩ましい。あちらを立てればこちらが立たず、しかも葬式が多様化してきているからなおさら難しい。
 私も「こういう場合にはどうしたらいいんでしょうね」と相談を受けるケースがあるが、どんな場合にも通じる正解というのが出せない場合が少なくない。

 こうした悩ましい役割を押し付けられるようになったのは、時代の変化であり、寺、地域、親戚、そして遺族を囲む環境の変化のためである。
 問題はどう方向づけるか、である。よく戒めなければならないのは、葬儀社に都合のいいようにと引っ張らないことである。自社の都合のいいようにリードすることで出てくるのは「葬儀社主導ではないか」という反発である。

 各地の仏教会や宗派の研修会に出て声を聞くのは、「葬儀社が横暴である」という非難の声である。「勝手にスケジュールを決める」「本尊をないがしろにする」「充分な読経時間がない」等、怨嗟(えんさ)と称してもいいほどの声である。もちろん葬儀社側にも言い分はある。「寺は頑固だ」「寺は遺族のことを考えていない」「寺としての役割を放棄している」等、寺に対する葬儀社の声も激しいものがある。

 遺族からも「選択肢をきちんと提示してくれなかった」「葬儀社の思うがままに進められた」等、必ずしも全体ではなく、あくまで一部の声であるが、聞かれることがある。無論、感謝の言葉も聞かれる。

 いま、葬儀社が「調整」を期待されるようになっているのは時代、環境の変化によるものであるが、充分な調整の労をとらずに、頼られていることを過信して、「葬儀社主導」にならないよう自戒する必要があるように思う。
「葬祭コーディネータ」説の危うさは、葬儀社が自己過信に陥る弊害もあるということである。

■古きを見直す

 葬式の場所はきれいな斎場へと舞台を移し、葬儀の外観も変貌している。一部には野暮ったさがまだ残っているが、全体としては洗練されてきている。
 だが、その中で失われがちなものもあるようだ。

 その一つは、「人情味」と表現しておこう。ビジネスライクになり、故人や遺族への思い入れが少なくなっている部分がありはしないか。
 お辞儀等の所作は洗練され、敬語を用いて(ときに過剰に)応接し、とスマートになってきてはいるのだが、肝心の遺体の尊厳に対するこだわり、遺族に共感しての思い入れという点で不足を心配する声がある。

 ある人は「お客のニーズとか言葉は立派だが、心が感じられない」と表現している。
 葬祭サービスもビジネスであることは否定できない。しかし「マーケット」という眼だけで見て、個々の死者、個々の遺族へのこだわりを失うことになれば、サービスの原点を失うようなものである。

 若い葬祭従事者あるいは専門学校で学ぶ学生を見ると、鋭い感性、人のいのちへの瑞々しい共感が溢れている人が少なくない。
 だが中堅という段階の人になると分かれてくる。死者や遺族へのこだわりを深くしている人と専らビジネス・マーケットとしか見ていない人とに。

 ベテランと言われる葬祭マンに会って「いいな」と思う人は、人情味が豊かな人である。人へのこだわりを深くしている人である。その人たちが異口同音に言う言葉は「葬儀はマニュアルじゃできないからね」である。
この言葉を「古い」という言葉で片付けられない。死者(この人たちは「仏様」と表現する)と遺族への「心」を失くしたら基本的に失格である。たとえ装飾がきれいで、運営の手際がよくてもである。
 もう一つは、葬具へのこだわりである。
 かつての標語で言えば「葬具賃貸業から葬祭サービス業へ」であるが、きちんとした葬式を施行するには、きちんとした葬具を取り揃え、正しく配置することは、葬儀をサービスとして提供する以上、大切さに変わりはない。

 60年代に、滅茶苦茶な、見た目重視の祭壇やら、理論的根拠がない葬具が出現したが、いままた見た目のデザインだけ重視の、理解があやふやな葬具の陳列が眼につく。葬式を出すことへの真剣さが欠ける場面を眼にすることも少なくない。
 時代に沿うことは大切である。しかし、歴史や伝統も深く理解したうえでの話でなければならないだろう。

 かつての人は葬具を「作った」時代を経験している。いまでも少なくはなったが作っている人がいる。葬具も作るたびに意味を問い返していたのだろう。いまは「買う」時代となった。地域にもその葬具の謂れを知る人は少なくなった。だが、葬具へのこだわりを失っていいわけではないだろう。

 新しさというのは歴史や伝統を正しく踏まえたところに咲くのではないか。そうでなければあだ花である。葬祭サービスは単なるイベント業とは異なる。そこには文化がある。


3.葬祭サービスの基本

■葬祭サービスとは

 葬祭サービスという言葉の語源、それを普及させた人の思い、それが現在どのような地平で論じられているかは、これまで述べたとおりである。
「葬祭サービスとは何か」を改めて論じる前に、そもそも「葬儀」とは何かを確認しておく必要がある。
 かつて私は次のように定義した。

「葬儀」とは、臨終から死後の喪に至るまでの、死別に出逢った人が営む、悲しみ、葬り、そして悼む一連の儀礼のことを表します。
 注意すべきことは、葬儀において表立って執り行われる儀式行事は、死を悼む人々の心の悲しみのプロセスの上に成り立っているということです。表面の儀式行事だけではなく、その奥底に流れる人々の心の動きを合わせて、葬儀を理解する必要があります。(『葬儀概論』)

 補うならば、一連の儀礼の背後にあるのは「文化」である。この文化に対する根本的な理解を欠いたところでは葬祭サービスは成り立たないのである。
 儀礼というのはイベントではない。文化的背景をもったものである。したがってファッションでもない。

 そしてこの文化の骨格を担っているのは「死をいかにして受けとめるべきか」という人の営みである。こうした問いが、日本では仏教や民俗がそれぞれ習合しあいながら葬送文化を形成してきたのである。
 かつての葬送習俗を復活せよと言っているわけではない。文化的背景に対する深い理解が必要だと言っているのである。

 葬送文化形成にも大きな影響を与えたのが、死によって遺族の被る打撃、悲嘆である。
 葬式の主体は、一方で死者であり、他方は遺族である。この遺族は死別の悲嘆(グリーフ)を抱えた存在である。
 死者のために遺族は弔いを行う。これを宗教者も、会葬者も、そして葬祭業者もこれを支援するのである。「弔いの支援」こそが葬祭サービスの本質と言っていいだろう。
 あくまで「死者のために」であるから、「遺体の尊厳」を守ることは最も重要な支援の内容としてある。

 そして「遺族がなす弔い」であるから、遺族の心情を深く理解しないでは行いえない。
 さらに「宗教者や会葬者と共同で」行う支援であるから、宗教への理解、会葬者を構成する親戚、地域、友人、知人への配慮は欠かせない。

 そして支援としては「弔いの場」を準備するのであるから、遺族の意向、宗教者の考えに耳を傾け、文化的背景を正しく理解して行う必要がある。枕飾り、通夜・葬儀式場の設営、後飾り等は弔いの場として準備されるべきである。

 この「弔い」は通夜や葬儀の儀礼だけを指すのではない。死亡直後(生前予約・契約の場合にはそれ以前からであるが)からの一連のプロセスを言う。遺体の搬送、安置、納棺、通夜、葬儀、火葬、その後の会食という一連の流れであり、その間を遺族はどう過ごすのか、ということをも含めたプロセスである。さらに四十九日、百か日、一周忌と続く喪のプロセスも続く。

■「サービス業」として

 また、この支援はボランティアとして行われるのではない。サービス業としてサービスを対価を得て提供するのである。したがって遺族と葬祭業者の関係は、消費者と事業者の関係になる。事業者は消費者に対して情報開示、説明、明瞭な価格の提示の義務を負い、消費者の理解を得た同意という契約によりサービスを提供するのである。
 消費者契約法、個人情報保護法という法律の制約に当然置かれることになる。

 公正取引委員会の調査でも問題にされたのは、消費者に対する「説明と同意」に関するものであった。事業者は消費者に説明をするのだが、それが消費者に充分な理解を得るに至っていないという点であった。

 これは価格表にしても、価格表がないという問題以前のところもあるがあったにしても、事業者側の視点から作られ、消費者側の視点から作られていないことが多い。
 いろいろな点を見ても、情報開示、あくまで消費者に有用なという意味において、が必ずしも充分とは言えない。というより情報開示は遅れているのが実情である。

 だが、そういう一般のサービス業という観点から不足する点を補ってもまだ、葬祭サービス特有の問題があることを指摘しておかなければばらない。  それは葬祭サービスの受け手である消費者が遺族であることからきている。死別直後の動揺、不安、無感覚といったグリーフのただ中にあるということである。

 だから実際には説明しても、説明されたとは受け取らなかったりする場合すらある。
 見積額が葬祭業者に関するものだけなのに宗教者の費用も含んだものだと誤解したり、親戚や会葬者の数によって変動する料理やお返し物についても、実際の請求額がそれによって変動すると不信感を感じてしまうということが生じる。
 また、葬儀を体験する機会が少ないことも大きく影響している。
 一通りの説明では不充分で、わかりやすく、かつ、懇切丁寧な説明が要求される。遺族がきちんと理解したうえで同意し、契約を結ぶという手続きが重要となる。
 これは料金だけのことではない。葬儀の趣旨にしても、進行の仕方にしても、はては生花の並べ方に至るまでそうである。

 葬祭サービスで気をつけなければいけないのは、顧客が希少経験なために不安を抱えていること、顧客が遺族となってグリーフを抱えていることを充分に配慮し、その顧客の身になってのサービスを提供する必要があることである。

■聞く作業

 葬祭サービスで説明の重要なことを述べたが、そもそも遺族と接して最初に行うことは説明ではない。
 まず哀悼の意を表す。遺族のグリーフに対して共感を寄せることから始まる。第三者ではあるが、遺族の立場に共感を寄せてサービスを提供する者であることを、言葉や態度でもって表明することである。
 この哀悼の表明が、顧客である遺族との信頼関係を作る糸口となる。


 ほとんどの場合、医療関係者を除き、死別後の遺族に対面する最初の人物が葬祭従事者となる。死別後に最初に出会う人間になる、ということのもつ意味は大きい。その人間が信頼に足る人物なのか、遺族は瞬時に判断する。それを決するのが哀悼の意の表明であると言ってもいいだろう。

 そして遺族との打ち合わせにおいても、まずは説明ではない。遺族の想いに耳を傾けるということである。葬祭従事者は主役ではなく、あくまで遺族の弔いを支援する者である。遺族の想い、死者に対する想いを聞かずには何も始まらないのである。

 耳を傾けるという動作は、私はあなたの味方です。信頼していいんですよ、という意志表示である。
 遺族の語る故人像を自分のものにする作業である。

 これは2つの意味で重要である。
一つは、弔われる主役である故人を理解しないでは弔いの支援そのものが成立しない、ということである。もう一つの意味は、まず遺族が想いを吐き出す機会を提供することである。遺族が死者について語ることにより、死が事実であることの認識を強めると同時に、その想いを吐き出すことそのものに意味がある。そして耳を傾ける存在がいるということは遺族の支えになる。

■枠組み

 死者について理解を深め、遺族関係についても理解を得たら、次になすことは商品の選択ではない。
 どういう葬儀にしたいのか、遺族は火葬、葬儀に至るまでどういう時間にしたいのか、という枠組み作りである。
 通夜や葬儀をどうもちたいかだけではない。どのように時間を使って死者を送りたいのか、ということをきちんと確認する作業である。

 これまで葬祭業者の提供するサービスは通夜、葬儀ということが中心であった。もちろん、通夜や葬儀をどうもつかも重要である。しかし、それだけではない。遺族が葬送の時間をどのようにもつかというなかで位置づけられるべきことなのである。葬儀は点ではない。遺族の弔いのプロセスなのである。

 この枠組みの中で、会葬者の範囲、宗教をどうするか、どんなスタイルの装飾にするか、遺体処置はどうするか、費用の枠組みはどうするか等も相談される。そして相談した結果の枠組みを確認する。
 この相談して合意した枠組みは文書化したほうがよい。誤解が生じないためである。
 この合意した枠組みをもとに、細目の決定、見積もりが行われるという手順が必要なのである。

 この枠組みを決めるにあたっては、可能なかぎり宗教者が一緒に作業できることが望ましい。宗教者も葬祭業者も共同で遺族のために葬儀を「創る」のが望ましい。遺族にとっては死者を理解し、遺族の想いを理解してくれる人がいるということが大切なのである。

■遺体と遺族の時間

 これからの葬儀で大切なのは、遺族と遺体が一緒に過ごす時間をきちんと確保することである。
 本来、通夜はそのための時間であった。いまではあたかも告別式のようになった感のある通夜であるが(そのため「通夜式」なる奇妙な名称までつけられる。通夜が告別式化したために通夜をイベント化しようとする、葬儀文化とは無縁の発想としか言いようがない)、納棺後の通夜の前の時間、通夜が終わった後の時間、翌日の葬儀開始前の時間、と工夫すれば時間は作り出せるはずである。

 私の個人的な体験では、通夜を自宅で行い、そのため家族が死者と個々に別れる時間は充分にあり、また葬儀のために家を出棺する前に遺族が皆集まり、遺体に手を触れて1時間にわたりお別れした。
 葬儀の後の火葬場への出棺を前にしたお別れの儀だけでは別れるのに充分な時間とは言えない。遺族がそろって、時間をあまり気にすることなく別れのための時間をゆっくりともてるよう配慮することが重要となる。いま、斎場の遺族控室で遺体とゆっくり別れることができる空間作りも始まっている。

 遺体との別れのためにエンバーミングはもっと注目されていい。刑法190条死体損壊罪との関係では最高裁が棄却してIFSAの自主基準に従う限り問題はないとする判決が確定し、エンバーマーの養成も進んできている。施設のほうでもコストダウンが図られている。法・人材・施設と3点で従来のバリアはなくなった。遺族に故人とのいい別れを提供するという意味からも、もっと普及してほしいと考えている。


■安い葬儀から温かみのある葬儀へ

 バブル景気の崩壊後、家族葬に象徴される「小さな葬式」がまたたくまに流行した。
 葬式をしない、いわゆる「直葬」までも市民権を得ようとする勢いである。
 だが消費者は、単に「安い」葬式を望んでいるわけではないだろう。見栄をはるような葬式は望んでいないだろうが、温かみのある、きちんとお別れができる、いい弔いを望んでいるのではないだろうか。

 遺族が参加し、自分たちが送ったのだと実感できるような、いいお葬式を望んでいるのではないだろうか。
 それぞれの遺族に対して、そういう時間と空間を適正な料金でどうしたら提供できるか、それがこれからの葬祭サービスの課題ではないだろうか。それが葬祭サービスの「価値」ではないだろうか。

 いかにも「売らんかな」の商売が横行している。業界が荒れてきている。それぞれの遺族のためになる「価値」を提供できる質の高い、そうして透明性のあるサービスを提供するにはどうすべきか、いま考えるべきところにきていると思う。

 宗教者との協働も重要な課題である。葬儀が死者を送る場として、緊張感のあるものとして、安物の演出によるのではなく、きちんと行われるにはどうしたらよいか、真剣に考えるべきであろう。
 宗教法人を買い取って、僧侶派遣する、僧侶が受け取るお布施の上前をはねるリベートなど、宗教を貶めるだけではなく、結果的に遺族の弔いも冒涜する行為になるのである。

 遺族がきちんと死者を弔い、別れるために、それを援助、支援する者として宗教者も葬祭業者もいるのだということを銘記すべきだろう。
 葬祭サービスがポリシーをきちんともって提供されるかどうかに、これからの葬儀の命運もかかっているように思われる。




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