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碑文谷創( 2003.6) 

お葬式とはそもそも何なのだろう か? 葬式無用論も出る中で、原点に返って、 お葬式を考える

■逢いたい、逢いたい……
■死別ということ
■母の死
■家族の死と弔うこと
■通夜・葬儀は一切行わない――ある遺言――
■お葬式は虚礼か?
■お葬式批判の検討
■自分らしい葬儀
■自分の死と家族の死
■伝統の継承の断絶
■お葬式否定への反発
■消費としてのお葬式
■お葬式に携わる者


■逢いたい、逢いたい……

「逢いたい、逢いたい、逢いたい、逢いたい……」
 無名の女性歌手の「逢いたい」という言葉をひたすらリフレインする歌がラジオから流れる。抑制がきいた歌い方だが、聴く者の心を揺るがす不思議な力がある。

 その歌に乗せて、ラジオを聴いている人のさまざまな「逢いたい」人についての手紙が読まれる。
 小学校時代の恩師に「逢いたい」であったり、子供時代に近所に住んだ人に「逢いたい」であったり、いろいろあるが、その圧倒的な多くが、死別してしまった家族に「逢いたい」であった。
 手紙を読んでいた永六輔さんや雨宮塔子さんが涙声になる。

 乳幼児の時に亡くなり、生きていれば今は15歳になっているだろうわが子に「逢いたい」、死に目に逢えなかった父に「逢いたい」、幼子である自分や家族を残して戦場で散った父に「逢いたい」、雪の降る日に若くして自死した母に「逢いたい」、神戸の震災で死んだ友人に「逢いたい」……。
 最近の死者の話だけではない。10年前、20年前、そして50年前以上の「死」であっても、人の心には愛する人の死は古くはならない。死者を想う気持ちが生きているのだ。

 ふだん私たちは、このような死や死者への想いに囲まれて生きているのだ、ということを意識していない。しかし、ふとラジオから流れる「逢いたい、逢いたい、……」という歌に耳を傾けるとき、「逢いたい」死者が自分の心の底に息づいていることを自覚する。そして、昨日のことのように涙するのだ。
 死について無感動な社会になっていると言われる。しかし、これは「他人の死」に対してである。家族などの身近な存在の死に対してはそうではない。心が震える感性を強く保持している。

■死別ということ

「お葬式」という言葉をわれわれはいろいろにイメージしている。だが、外から見るのではなく、体験した身から素直に考えると、これは明確である。「人と死に別れること」である。
 そこにある「人の死」は、特に「家族の死」である。配偶者の死、子供の死、親の死、きょうだいの死、……家族の死は心を激しく揺るがす。悲しみを、嘆きをもたらす。
 突然の死、理不尽な死、納得できない死は、狂おしいほどの嘆きをもたらすが、長寿を達成した人の平穏な死であっても、その長い人生の襞ゆえに深い寂しさを家族にもたらす。たとえその時に気持ちは平穏であったように見えても、家族の死は時間をかけて、心に埋められない冷たいすきま風を吹きつけ、また、心を苛むことがけっして少なくない。

 人間(だけでなく、生あるものは全てであるが)は死ぬ。確かにそのとおりである。頭では理解している。
 だが、家族の死は、わかっていても、予期していたとしても、直面すると、平静さを奪っていく。頭ではなく、まず心や身体が揺るがされるのである。
 家族の死に出会い、私たちは「小さな死」を自らの中で確かに体験するのだ。

■母の死

 1996年1月に亡くなった作家の結城昌治さんが、死の直前に語った文がある(『死もまた愉し』講談社刊)。 その中に62歳で亡くなった母の死について述べている。

…私が三十二歳のときです。死というものの実態に触れたのは、このときが初めてといっていいでしょう。
 朝早く廊下でバタンという音がしたので、出てみたら母が倒れていました。廊下で拭き掃除をしていたらしい。そのまま十日間昏睡状態がつづき、意識を回復しないまま息を引き取りました。病名は俗にいう脳溢血で、もともと血圧は高かったのです。
 私は母より先に死んではいけないと思っていましたが、なにぶん結核の大手術をした身ですから、私のほうが先に死ぬのではないかという不安がありました。 もし、母が先に死ねば、むしろ、ほっとするんじゃないかとも思ったりしました。母が死んだときの心境は、正直いって、これで、おれは自由になれる、という不 届きな親不幸の気持ちがちらっとあったことを告白します。

 しかし、じっさいに死なれてみると、これほど悲しい出来事もありませんでした。遺体は足のほうから冷たくなりますが、額のあたりは、しばらく温かいもの です。私は母の額に手を当てていましたが、涙がぼろぼろこぼれてきました。私は、めったに泣くことはないのですが、そのときは止めようもなく涙があふれま した。べつに涙をたくさん流したから、悲しみが深いなどと言うつもりはありませんが、あんなに涙を流したことは、いちどもありません。
 母に先立たれた悲しさは、日を追うごとに深まっていきました。去る者日々に疎しといいますが、その反対でした。もう耐えきれないほどの悲しさがましてきたことを憶えています。いまでも会えるものなら、いちばん会いたいのはおふくろです。

 結城さんは、自分の死に比べれば、母の死は「他者の死」だと述べるのだが、痛切な「別離の悲しさ」を隠すことなく、母の思い出を語り続ける。
 私も、最近、父の死を体験したが、この結城さんの「母の死」と、同質の体験であった。
 私も、仕事がら、自分は冷静に父の死を迎えるだろうと思っていた。だが、頭ではそう思っているのだが、身体が異なる反応をしていた。「涙、ぼろぼろ」は 流行歌の文句ではない。中年のいい男が、枕を涙で濡らし、喉をひきつかせていた。それが家族の死で、それが「お葬式」なのだ、と私は思い知らされた。

■家族の死と弔うこと

 愛する家族との死別は、身体の一部がもがれるような痛みであり、心の一部が確かに壊れる。それに出会った者は、これを埋めようともがく。この「もがき」が、体験者にとってはお葬式の実質であり、お葬式を表現していることは事実であろう。

 淋しくなって泣くだけならまだいい。しばしば家族の死は心を傷つける。
 子供を亡くした老いた親は「なぜ代わって死んでやれなかったのか」と無理を言って嘆く。看取った者が、介護に疲れてぼーっとしていた瞬間を思い出して、「なぜ、あのとき、もっと優しく言葉をかけてやれなかったのか」と悔やむ。遠く離れて住んでいた息子は、孫を溺愛していた老父に「孫をもっと会わせてやるべきだった」と悔やむ。夫の突然の病死に直面した妻は「力づくでも病院に連れていって健康診断を受けさせるべきであった」と、あたかも死の原因が自らにあったように責める。

 嘆き、悔い、責めは、遺された者の心を傷つけ、そして死者に対する深い負い目となる。
 死別によって生じる、こうした悲しみ、嘆き、後悔、自責の念……これらを総称して「悲嘆(グリーフ)」と言う。お葬式とは、遺された者による死者への弔いである。そして、この「弔い」とは、遺された者が、こうした悲嘆を心のうちに抱えながら営むものだ、営まれているのだ、ということを銘記する必要があるだ ろう。

■通夜・葬儀は一切行わない――ある遺言――

 ここにある新聞記事を引用する。これは98年4月に朝日新聞に「どうする あなたなら お葬式」に掲載されたもので ある。

一、通夜・葬儀は一切行わない。 二、香典・花・供物も一切ご遠慮申し上 げる。 一、日本棋院葬の申し出がありしもご遠 慮願う。

 文化功労者で、囲碁の名誉本因坊の坂田栄男さん(78)は昨年6月、遺言にそうしたためた。「唐突ながら、小生、命の終わりを迎えました」 こんな書き出しで始まる「死亡通知文」も用意している。死後、関係者に送ってもらうもので、結びはこうだ。「葬儀の欠礼をお許しください」
 本因坊戦七連覇、史上初の名人本因坊、獲得タイトル数六十四……。
 全盛時、将棋の故・大山康晴名人と並び称され、切れ味の鋭さから「カミソリ坂田」と呼ばれた。

 日本棋院の理事長も四期八年務め、現顧問でもある坂田さんが、一切の葬儀を拒否するのは、なぜか。
 坂田さんに最初の囲碁の手ほどきをした父親が三十五年前に亡くなった時は、「分不相応な葬儀」を営んだ。
 坂田さんは三人きょうだいの末っ子だが、「著名人」として喪主をかって出た。親交のあった政治家に頼んで花輪を送ってもらったりもした。 しかし、その後、数多くの葬儀に参列するうち、こう思うようになった。「本当に亡くなった人は喜んでいるのだろうか、って。虚礼に思えてきたのですね。ごめい福は心の中で祈ればそれでいい、と」 十年ほど前から、葬儀に原則として参列しないことを決めた。「自分の葬儀をしない、と決めたのもその延長なんです」

 この新聞記事「どうする あなたならお葬式」は大きな反響を呼んだ。「葬儀をしない」と本人が思っても、なかなか意思どおりにいかない。それならば、意思が生かせる遺言はないだろうか。それが記者の主張だった。反発もあった。「葬儀をしない、とするのが当然という考えに立っている」、「大新聞がこんな記事を載せると、葬儀をしないのがいいことだという風潮を作りだす」「葬儀は遺族が気がすむように、遺族に任せるべきではないか」など。

 だが、共感の声が多かったことも事実である。「なぜ、仏式で葬儀をしなくてはいけないのだろうか」「死後のことで生者に迷惑をかけたくない」「無宗教で お別れしたい」「本人の意思が死後に生かされて当然ではないか」
 先に「お葬式とは家族との死別、が原点」と書いた。だが、ここでは「お葬式とは死後のセレモニー」であり、それについての賛否が語られている。ここにも 確かな「お葬式」のイメージがある。少しこのことを検証してみようと思う。

■お葬式は虚礼か?

「虚礼に思えてきた」
 お葬式への反発の源を探してみると、これが一つのキーワードのように思える。「虚礼」とは、「虚しい、実がない、うわべだけの、表面的な儀礼」という意味 である。
 つまりは、現状のお葬式に対して、死者を弔う実質がないのではないか、と少なくない人々が感じ始めているということである。

 この「感じている」ということが重要である。今のお葬式には違和感がある、というのである。もし、お葬式が虚礼であるとするならば、お葬式はその人にとって無駄なことになる。したがって「お葬式はしなくてよい」「お葬式はしないでほしい」となるのだろう。
 この結果が関係者を中心とした地味葬であり密葬の流行となる。これに対して、「いや、お葬式をすることは大切だ」「お葬式は意味のあることだ」と口でいくら説いても有効ではないように思う。お葬式は「虚礼になっている」と感じ、お葬式は無意味であると感じている人に対して有効ではない。
 お葬式が原点を忘れ、単なる死後のセレモニーになってしまうなら、それは虚礼となる。原点を失って、セレモニーだけが一人歩きしているように感じると、 それは虚礼に映ってしまう。

 もう少し正確に述べよう。現状の「お葬式」を虚礼であると感じて、「お葬式」をしたくない、と考えている人は、お葬式そのものを否定しているのではない。現状のお葬式の様式が自分たちが考えるお葬式とは異なる、と言っているのである。
 死者が出て、その死者を弔う人がいるかぎり、そこにはお葬式はある。だが、現状のお葬式の様式を見ると、そこには死者を弔う以外の要素がたくさん入り込んできていて、もはや虚礼としか言いようがないものになってしまっているから、自分はその様式ではお葬式をしたくない、と言っているのである。

■お葬式批判の検討

「お葬式批判」を要約すると次のようなものになるだろう。

1.自分は仏教徒でないのに、なぜ死んだら仏式で葬儀をあげなくてはいけないのだろうか。
2.自分は家族や知人だけに見送られたいのに、なぜ、あまり関係ない人にまで迷惑をかけて大げさに死んでいかなくてはならないのか。
3.生きている者こそ大切なのに、なぜお葬式に巨額のお金をかけなくてはいけないのだろうか。
4.死は自分のものなのだから、自分の意思どおりのお葬式をしていいはずなのに、なぜ、世の中の慣習に合わせたお葬式をしなければいけないのか。
5.お葬式は生きている者の世間体を飾るだけのものになっているのではないか。そんな葬式はしなくていいのではないだろうか。

 1.仏教葬儀への疑問については、特に都市部で多く見られる。
 寺檀制度が薄れている。寺檀関係を意識している者は全国で7割、都市部ではせいぜい5割というところだろう。だが、葬儀となると依然として8〜9割が仏教葬儀で執り行っている。寺檀関係をもっていたにしろ、自分が仏教や寺院を選択しているのではなく、両親や祖父母あるいはさらに先の世代が選択したことであって自らは選択しているわけではない、とする人は少なくない。日常的にも寺院と関係を結んでいない人が多くなっている。せいぜいが法事や墓参りにおいてで ある。
 かつては、仏教葬儀は死者をあの世へ送る回路と信じられていたが、今では彼岸意識も弱まってきている。
 こうした人々にとって、僧侶に葬儀を依頼することは、定型的な葬儀を依頼することの一環でしかない。
 ある僧侶が「信仰がないということが根本問題ではないか」とつぶやいていたが、葬儀を僧侶に依頼するという内在的な理由がなくなっている人が増えてきていることは事実である。

 2.の地味葬志向は、戦後に葬儀があまりに社会儀礼色を強めたことへの反発も ある。
 しかし、何よりも「死や葬儀は個人的なものだから、本当に自分を大切に思っている人だけに送ってもらいたい、そうされればいい」という感覚なのであ ろう。
 他人の葬儀に参列・会葬の機会に、取引先や義理で参列している人の姿を見て(自分もその一人であるが)、悪い印象を抱いたという人も多い。また、企業からリタイアした後、1個人になった者として、そうしたしがらみにまた足をすくわれたくない、という想いを抱く人も少なくない。さらに、他人のお葬式を見てたいへんだなという想いを抱き、この経験を家族にさせるのはしのびない、と語る人もいる。

 3.の簡素派は、年金生活に入り、自分の葬儀のためにお金を費やすより、残った配偶者のために残したり、子供たちの生活の援助になったほうが有益だと考える人は少なくない。自分のために家族がお金のために無理してほしくない、と考える人は多い。また、こうした人は、自分の葬儀のために残される家族に迷惑をかけないよう最小限の資金準備をしている場合が少なくない。

 4.の自由派は、戦後50年が経過し、高齢者の中にも戦後派が登場してきたことを示している。80歳未満は実質的に戦後派と言ってよい。この中で若い時代、因 習と対決してきた者ほど自由への希求は 強い。

 5.の実質派は、お葬式の現状への苦い経験をもっている人が多い。「故人のため」と言っていながら、結局は遺された者の世間体をよくするために利用してい るのではないか。死は自分のものであるから、こうしたものに利用されたくない。一人でも心から弔ってくれる人がいれば多数の故人には無関心な人々に送られる よりましである、と考える。

 実は、「お葬式をしない」と言っても、その内容はさまざまである。
 僧侶による葬儀を拒否して無宗教で営むのも「お葬式をしない」であるし、家族だけで密葬をして告別式を営まないのも「お葬式をしない」である。
 自分たちが常識的にイメージしている姿のお葬式をしないことが「お葬式をしない」という表現となっている。

■自分らしい葬儀

 私もこの題名で本を出したが、「自分らしさ」「その人らしさ」は今のお葬式に対する希望の代表的なものである。
「自分のお葬式ではピンクのカーネーションで献花して」とか「私は野の花、野の草が好きだったから、これを祭壇にあしらって」とか「故人の愛唱歌(童謡、 演歌、軍歌、校歌、応援歌など)を告別式で演奏してほしい」とか、「子供時代からのアルバムを展示したい」とか、今の葬儀において遺族からこうした希望が 出されることが少なくない。

 戦後の高度経済成長期以降、やっとのことで安定した生活を手に入れた人々が「せめて人並みの葬儀をしてやりたい」という希望が、祭壇セットを用いた標準 的施行パターンの流行を招いた。だが、戦後も50年経過し、意識も多様化し、それぞれの好みが大切にされる時代になった。葬儀に対する個人的な希望が多く出されるようになってきた。
 家族を弔う立場の家族にしても、お葬式に「故人らしさ」が何らかの形で表現されることにより、自分たちの弔う想いが表現されたと感じることができる。
 一時は祭壇の大きさで弔う気持ちの大きさを測った時代があったが、今は故人らしさを何らか表現することに故人への想いの深さを測っているかのようである。

 これはお葬式が地域共同体主体から家族主体に変わってきていることとも関係している。 地域共同体が主役であった時代は、その地域社会の慣習にのっとる葬儀が基本であったが、家族が主役となることにより、家族の故人に対する想いがストレートに表現されるようになったのである。
 このお葬式の「個人化」傾向は今後ますます強まると思われる。

■自分の死と家族の死

 近年、自分のお葬式をデザインするとまでいかなくとも、自分のお葬式のあり方を決定しておこうとする動きが、まだ小さな動きだが出てきている。
 そしてこれが、近年のお葬式批判を特徴づけるものの一つともなっている。「お葬式は遺された者が死者を弔うために行うもの」というのが過去からこれまでのお葬式の概念であった。これに対して「お葬式は自分の死に際して、自分がこの世と別れるために行われるもの」という新しい概念である。「自分らしく生きて自分らしく死ぬ」、したがって自分のお葬式は最後の自己表現の場だとする考えである。

 深夜テレビを見ていたら、ガンを宣告され、自分の生をどうとらえるか、苦しみの中で最後の一瞬まで模索した医師のドキュメンタリー番組に出合った。
 その医師は「ガンを宣告された者は死刑囚のようなものだ」と語り、残された短い生命をどう生き抜くかを自らの課題とした。死後、友人の医師が「彼は、自分だけでなく、われわれもまた、死ぬべき存在であって、死への旅人なのだ、ということについて教えてくれ、どう生きるべきかを自らの身を削って教えてくれたように思う」と眼に涙を浮かべ述懐していた。
 印象的だったのは、死に向かう医師が死を怖がっているのではなく、事実としての自分の余命について語っているとき、その医師を愛するあまり、周囲の医師や 看護婦は「これまでも立派に闘病してきたのだからがんばりましょう」と勇気づけたり、「意思の力というのは大きいようですから、私は奇跡を信じます」と希 望を述べたりしていることであった。寄り添うべき隣人が、むしろ死の事実に立ち向かうことを怖れている。
 限られた生命と自覚している者の勁さに人間としての尊厳を見、また、死に直面している者を前におろおろするしかない人間の弱さを見せつけられた。

 ターミナルケア(終末医療)とは、孤立しがちな死にゆく者へのケアということだけではなく、死にゆく者から〈いのち〉というものについて教えられ、ケア されるという相互的なものではないのか、とふと感じた。
 ターミナルケアについての病人本人の意思の確認と同意の大切さから「死の自己決定権」という言葉が登場した。当然にも病人は自分の死後についても配慮を示す。それが葬式のことであったり、死後の財産の処分についてであったり、死後の家族の行く末であったりする。これを「死後の自己決定権」と言う。
 死および死後について自己決定しておきたいとするのは、死に直面した病人だけではない。老いの季節に入り、自分の残された〈いのち〉について思いを寄せ る人もまた同様である。お葬式に死者の想いを生かすことが、遺族にとっても死者を弔うことになるのであるとするならば、これは悪いことではない。近年、お葬式の現場に、死者の遺志を生かそうとする動きがあり、その人らしさを表現しようとする傾向が顕著になってきているが、遺された者にそれへの合意があるかぎり尊重されるべきだ ろう。

 だが、自分の死のデザインと家族の死に出合った遺族の弔いとは常に一致するとはかぎらない。一致しなくとも、それぞれにとって死のもっている意味が異なるのだから、一致しないことにより一方が他方を批判することは意味をもたない。死は死ぬ者だけに起こるのではなく、遺された者にも起こるのであって、共同的 なものなのである。自分の死だけが全てではなく、遺された者にとっての死ということも当然存在するのである。
 死に向かう者は、自分の死に直面することによって、死を体験する。これはいずれ自らも死ぬべき存在であるにせよ、家族にとってはその実際は理解しがたい ことである。

 しかし、また、家族も本人が死に臨み、死に直面したときに、家族として死を体験する。死にゆく者は、この遺族の死の体験をけっして体験することはない。
 この2つの死の体験は、結びついてはいるが、けっして同じものではない。
 お葬式への故人の意思は、しばしば遺族にとって重荷になるのは、単に生きている者の世間体に対する配慮だけではないのである。

 本人はお葬式はいやだと言う。だが、遺された者は本人の遺志だから尊重しようとはするのだが、自分たちの故人への想いから、それが実行できないということがある。また、本人の遺志にしたがってやったが、後日にどうしても悔いが残るということもある。こうした立場の異なる者の齟齬が起こるのも、死の現場ならではのことである。 当然にも、家族の間でも、その営み方を巡って意見の異なりが発生する。死者への想いのかけ方がそれぞれに微妙に異なるからだ。
 お葬式を巡って、しばしば「きょうだい喧嘩」が発生するのは、死の体験の仕方の微妙なズレによるところが多い。しかも、家族はお互いに精神的に動揺して いるし、感覚も研ぎ澄まされることが多い。しなくてもいい喧嘩が発生しやすくなるのだ。
 一人の死を巡って、周囲のそれぞれがそれぞれの仕方で死を体験しているのである。それがお葬式の現場なのである。

■伝統の継承の断絶

 お葬式を巡る混乱、多様化はこれからもっと進むであろう。私たちの社会は、これまで経験したことのない高齢社会に突入しているし、核家族化、特に高齢者世帯の増加、そして非婚化と少子化のさらなる進行、……お葬式の主体である家族が変容を強いられるだろう環境変化は大きなものがあるからだ。

 お葬式は伝統文化である、と言われる。長い歴史を見ればそのとおりである。だが、戦後という短い時間に注目してみると、これは疑って見なければいけないように思う。
 伝統文化であるならば、継承してきた群れが存在するはずである。確かに地方においては地域社会の紐帯が強かったからそれなりの伝承はあった。だが都市部を見るとどうだろうか。戦後の高度経済成長以降の約30年、伝統文化の継承者は不在だったのではないか。葬儀の葬祭業者への外注化が進められることにより、人々は葬儀文化を自ら担う存在ではなくなった。しかもこの間、死や葬儀をタブーとする意識の強い時代であった。約30年間、人々はお葬式に対して意識の外へ追いやってきたのではないか。

 よく「高齢者はお葬式の伝統文化の継承者」と言われるが、これは昔の話である。今の、特に都会に住む高齢者は、若い人同様に「お葬式の素人」である。70代以下の人は、青年期の初期に地元を離れ、青壮年期は死を忘れて働き、そして重要な時期に死や葬儀の意識の空白期を生きてきた。地元に残った長男に祖先祭祀を任せ、自分はそういう伝統行事に無縁に生きてきた、という人が多い。だから、90年代に入り、死へのタブーが薄くなり、いざお葬式の様相を見たときに、特に都市部の住民たち(高齢者も含めて)は、お葬式に対してある違和感を感じたのではないか。自分たちの意識とはかけ離れた、距離が大きいことを発見したのだと思う。
 寺檀関係が弱まり、あの世信仰も薄れてきた。「なぜお葬式に僧侶なのか」という、一時代前では考えることもなかった疑問も出てくる。「なぜお葬式に祭壇なのか」「なぜ提灯なのか」「なぜ香を炊くのか」……今までは「そんなものだろう」と真面目に考えずに対処してきたものが、よく見てみると疑問だらけになる。そこに想いを仮託することが困難な自分を発見したのではないか。

「弔いは自由ではないか」という主張は、従来のお葬式の様相を否定し、自分たちなりの新しい様式を求めるところとなった。「お葬式」ではなく「お別れ会」を、 という変化はここに生まれたのだと思う。

■お葬式否定への反発

 今、お葬式を巡っては意識の分断、多様化が進行している。
まだ少数ではあるが「お葬式をしない」とする考えも現れ、都市部ではそれなりに共感をもって受け止められている。
 だが、「お葬式をしない」ことへの反発もまた大きい。

 お葬式という儀礼は、宗教的には「死者をあの世に送る」ことである。また、社会的には「死者を死者として認める」ことである。
 社会的なことについて述べるならば、「死者を死者として認める」ということは、社会的に死を告知する意味に加えて、死者の尊厳を社会的に承認することを意味している。したがってお葬式では、死者への弔意を表明することが重要になるし、死者の「遺徳」が語られることが重要となるのである。
 死者が、仮に社会的には無名であったとしても、葬式を営むことは、その死者が生きた人生への尊敬、共感を寄せ、かけがえのない1個の人格、いのちとして尊重して、その死を惜しむ、ことなので ある。

 ときおり、お葬式で、死者の遺徳が本人の実物以上に飾られ、その死が過剰に演出されることがあるのは、この想いが強すぎたためであって、ほとんどの場合、故意や悪意からくるものではない。人の死という衝撃に出会い、人々はときおりバランスを失うのだから、客観的に冷静に見れば奇妙なことでも起こりうるのである。それがまたお葬式の現場であると言ってもよい。
死者の子供たちが親の遺言にしたがって「お葬式をしない」と表明したとする。死者のきょうだいである叔父や叔母たちは納得せず反発するという事態は珍しいことではない。本人の遺志なのに周囲はなぜ、納得しないのか?
 お葬式をしない、ということは、死者の存在、生き方を無にすることではないか、と危惧しているからである。きょうだいである本人の意思であるとはいえ、それはやるせないのである。

 そういえば、前述の朝日新聞の記事に次のような事例が紹介されていた。
 夫の遺志で無宗教のお別れ会をしたところ、後日、実家では「浮かばれない」と地元で僧侶を招いて葬式をやり直したというのである。
 記事では、妻の「悔しさ」が語られていたが、おそらく実家のほうも悔しかったのであろう。
 妻と実家のそれぞれの死者への想いがぶつかり合った事例ということができるだろう。「お葬式をする」ことへの反発、そして「お葬式をしない」ことへの反発、この2つの対立は、しばしばお互いがお互いを認めないところまでいく。死者への想いは自分たちの側にあり、相手にはない、と断定してしまいがちである。しかし、それぞれが、死者への想いをもつから対立があり、反発が生じるのである。

■消費としてのお葬式

「お葬式」という言葉でマスコミなどがまず取り上げるのは「値段」「費用」で ある。
 マスコミだけではない。消費者センターや公民館の講座で招かれて話をすると、費用の話題になると、いっせいにペンをとり、熱心にメモをとりはじめる。
 わからないから、実際にはどのような費用がいて、どのくらいかかるのか、という関心が第一である。
 料理や親類の宿泊費などについて話すと「あー、姉の家の葬儀ではこんなことあった」とか、頷きながらメモをとって いく。
 僧侶に支払うお布施についても例外ではない。「あのときの坊さんは高いお金を請求しておきながら火葬場にも来なかった」「いや、兄のときは、安かったわよ」などといろいろ言いながら、「世間相場」を知ろうとする。
 会葬の機会は多いが、お葬式を出す立場での体験は少ない。あった場合でも、10年前の体験であったり、また、あれよこれよという間に済んだので、そのときの出費の妥当性について自信がもてない人が多い。

 講座で私は、データを示しながら「お葬式の費用は、その家族の考え方によって相当に幅があって変わるものだ」ということを、例をふんだんにあげながら説明する。すると、自分の家族のこと、自分のお葬式に対する考えについて、聞いている人々は思いをいたしているようで ある。
 お葬式の費用については「よくわからない」という感覚がまず大きい。
 各種のアンケートを見ると「お葬式は費用がかかりすぎる」という回答が多い。だがこれは外からお葬式を見た感覚である。実際にお葬式を出した人の感覚はこれと異なる。「仕方がなかった」という回答も多く、単純に「高すぎる」という答はむしろ少数派である。
 体験者は、まがりなりにも自分の葬儀の仕方を選択しており、その結果の費用については、自らの選択の結果であるから単純な否定にはなかなか結びつかないのだろう。また、香典という名の入金があり、また、死者の「お葬式費用に」という蓄えもあって、支払いの合計が負担の合計ではない、ということを実感しているということも影響しているのだろう。

 確かに「総費用280万円」と聞くと「高い」と反応するのは自然だろう。だが、それが香典を差し引くと70万円で、親の貯金を使うと、子供は旅費・宿泊費だけの10万円程度の負担だったとすると感覚は異なって当然である。だが、これを「納得している」「受け入れられている」とするのは早計である。
 一般の「高すぎる」という感覚は、まず「お葬式はわからない」から始まり、「わからないものになぜあんなお金がかかるのかわからない」したがって「無駄な費用をかけている」となるのだろう。

 この生活者の「わからなさ」に対して葬祭業者などサービスを提供する側はあまり親切であるとは言えない。
 生活者の「わからない」に対して、多くの葬祭業者は「お葬式」というある標準的な商品があって、それを自明として、つまり生活者が「わかっている」ものとして提案するからである。葬祭業者にとっては「わかっている」ことだが、生活者は「わからない」のである。
 そして、この「わからなさ」に対しては、まず生活者が「どんな葬儀をしたいのか」というそれぞれの希望をまず明らかにする必要がある。「わからなさ」に対して、自らの立場をそのままに自らの商品をいくら説明しても、それはほんとうには「わかる」ことにはならない。
 生活者自らが希望を明確にさせる。それに対して、その希望に応えることのできる商品を説明する。生活者がしたいことに対応して商品説明をするのであるならば、生活者もその費用がどうであるか判断がつくであろう。 そして、生活者の希望を明確にするには、家族の死に対する想い、家族関係、生活状況を把握する必要がある。

 ある葬儀社の社員が「見積というのはカウンセリングに近いものだと思う」と語っていたが、顧客の状況を知り、顧客が自らの希望を自ら把握させる、ということが基本として必要ならば、それはまさにカウンセリングである。
 お葬式の費用のメニューには、物について値段がついている。祭壇は、棺は、生花は、……。だが、生活者は物に辿り着く前に、自分たちのお葬式イメージを作り上げる必要がある。その顧客のイメージを、顧客の希望する予算内で実現するには、物だけでなく、ソフト的なサービスを含めて説明する必要がある。

 今、必要なのは「選択と納得」ということである。そして選択が可能になるための情報の提供、あるいは、聞き取り作業なのだと思う。「お葬式」という商品の内容に対する生活者の想いはさまざまである。それは死者に対する想い、生活環境、あるいは人生観もまた影響しているであろう。その中で「弔い」は行われる。生活者それぞれの「弔い」を実現する一助として、葬祭業者は各種のサービスをリーズナブルな価格で提供するのだ、という原点を忘れてはならないだろう。
 提供するサービスに対する満足度、そしてそれがリーズナブルであることへの納得度、この満足度と納得度が必要になる。満足度がなければ費用の納得度はけっして高くない。だが、内容への満足度はあっても費用に対する納得度が欠ければ顧客の評価は高くならない。

 もう一つ必要なのは商品構成の見直しではないだろうか。
 あいかわらず祭壇の大きさに葬儀費用が比例するメニューだけを用意しているところがある。祭壇は選択肢の一つであり、その前にどんな葬儀をするか、とい う選択があるのである。もし、祭壇に価値を認めない顧客であれば、必要な葬儀費用を得られないという結果にもなる。
 標準セットを用意するのもよいが、それはどういった選択結果としてあるのか、ということが、わかるように構成されている必要がある。
 生活者の商品選択のプロセスと葬祭業者の商品提供の構成が合致していることが費用に対する「わからなさ」を克服させるのだと思う。
 生活者の「わからなさ」をそのままに商品を提供して、そのサービス内容に満足すればいいが、満足しなかった場合、顧客は「高かった」「押しつけられた」 という評価をする。

■お葬式に携わる者

 葬祭業者にしても、僧侶にしても、お葬式に携わる者にとって最も必要とされる資質は何だろうか?
 それぞれが専門知識や技能をもつことは前提として、そのうえで必要なことは何だろうか?
 いくつかあるだろうが、その中の一つが「慣れない」ことなのだと思う。
 一つ一つの現場が、それぞれの家族が固有の死を抱えて、悲嘆の中に弔おうとしているものだ、ということの強い認識が要求されるのだと思う。
 それぞれの現場が固有なのである。故人はどうだったのか、それに対する家族の想いはどうなのか、ということを謙虚に知ることが係わりの第一歩となるのでなければいけないだろう。

 そして死の現場というものがどういうものなのか、もっと知る必要があるだろ う。
 固有の死の現場に係わるという認識、それ故の感性がなければ、お葬式という現場に、ほんとうの意味で係わるということはできないのではないだろうか。
 死の現場への係わりには、正解というものがない。それぞれの現場が異なるからである。それぞれの家族の死の体験が異なるからである。

 お葬式は見る立場によっていかようにも見える。無責任な第三者の眼、職業としての眼、死を厭う者の眼、隣家の眼、……それぞれでそれぞれに見える。無責任な批判も、差別的な眼も、揶揄する声もある。
 だが、大切なのは、お葬式は固有の死の現場であり、そこで家族を喪失して傷ついている者がいるという認識であり、その遺族の眼、感情であると思う。
 これらに固着することにより、そこで展開するお葬式はさまざまであるが、遺族の弔いの行為によりよく奉仕することができるのであろう。また、遺族がこの弔いをそれなりに行うことができることによって、認められ、感謝されることにもなるのだと思う。



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