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碑文谷創(2006.7) 
供養とは日本人のグリーフワークではないか?
「供養」とは何であるか、供養の場であった仏壇、グリーフワークを考え、供養の再評価を行う

供養 (仏)三宝(仏・法・僧)または死者の霊に供物を捧げること。(広辞苑)

1.供養の原風景
2.供養の場としての仏壇
3.グリーフワークとしての供養

1.供養の原風景

■息子と母親
「供養」ということを考えるとき、私には忘れられない光景がある。
 それは死んだ友人の母親の姿である。
 話をその友人(浩介)の突然の死の出来事から始めようと思う。

 浩介は母一人、息子一人の生活。とはいっても彼は母を一人、関東近郊の郷里に残し、東京に出て働いていた。
 彼は一日の仕事を終えて退社後、急病に罹り、救急車で病院に運ばれたが、そのベッドで、誰の見守りもなく、あっけない最期を遂げた。
 急遽かけつけた母親は、もの言わぬ息子と対面することになった。
 傍で私はその様子を見ていたが、母親は取り乱すことなく、静かに息子と向き合った。そっと手を顔に触れ、その目、額、頬、顎、とさするように触っていった。最後に唇に指を這わせた。
 その間、一言もなかった。彼女の目は穏やかで、まるで乳飲み子を愛でるかのようであった。
 続けて友人の揃えられた手をとり、指1本1本を数えるように握りながらさすっていった。
かけられたシーツを静かに取り去り、腕、肩、腰、脚、足指とゆっくりと確認していく。そして息子の肩を抱き、しばし目を閉じていた。

 母親が息子に触れ合っている間、私には時間が止まっているように感じた。濃密な、ある種官能的な空気が殺風景な霊安室に漂っていた。
 彼女は一言も発しなかったけれど、私は彼女が溢れる言葉を息子にかけていた様子がうかがえた。
 しばらくして肩を起こした彼女は、再びシーツを静かに息子にかけ、両肩がきちんと覆われるように整えた。そして息子の頬に接吻した。
 私は、母親の動作があまりに自然なので、部屋を出て、二人きりにすべきだったということすらも忘れてしまっていた。

 母親が息子を愛しているとはどういうことなのか、その深く濃密な関係が私の心に迫った。それはけっして排他的なものではなく、ごくごく自然なものであった。息子に対してそうすることがいかにも当然であるという自然な振る舞いであった。
 立ち上がった彼女はじっと息子を見ていたが、その姿勢のままで「お世話になりましたね」と私に礼を言った。そして私に向き直り、「浩介は私の息子でした」と、はっきりとした声で言った。私も、「浩介はあなたの息子でした」と言った。

 友人である浩介と私は、仕事の同僚という関係を超えた間柄であった。彼から母親の話はいつも聞いていただけではなく、休みの日には彼の実家に行き、泊まってきたこともあった。だから親子のことはよく知っていた。
 でも、この霊安室での母と息子の情景は、私の想像を遥かに超えた、より濃密なものであった。
 母親であること、息子であることのもつ意味を理屈ではなく、深く心に感じさせる出来事であった。

■浩介の葬儀
 葬式は近所の寺を会場にして行われた。
 会社の同僚たちが駆けつけ、一人ひとりが自分の役割を見つけ、手伝った。仲間の顔は、驚きのため、いずれも蒼白で、目を赤くしていた。すすり泣きがあちこちで起き、庭のかげに逃げこんで号泣する者もいた。
 彼の学生時代の友人もたくさん顔を見せた。花束を抱えてきた女性の友人もいた。その花は彼が眠る柩の上に置かれた。

 私は葬式に参列した経験はあったが、葬式の渦中に立ったのは浩介の葬儀が初めての経験だった。だからそう感じたのかもしれないが、あんなに痛切な感情が支配した葬式は初めてであった。
 彼の学生時代の友人も、会社の同僚も、皆、彼の死自体が信じられなく、驚愕していたし、心を傷めていた。まだ20代の死であったし、しかも急死であったので、皆が喪失を受け入れられず、精神的な混乱の中にいたように思う。

 そんななかにあって親族席は静かだった。ひっそりしていた。いつもは一人くらいは声高で話す人もいように、そうした人はいなかった。親族席を覆っていたのは虚脱感だったように思える。肩を落とし、そして一人遺された母親を心配していた。
 母親は終始穏やかであり続けた。微笑はなかったものの、優しさを身体で表現していた。
 友人たちが涙を流しながら「悔しいです」「残念です」とお悔やみを言うのに対し、静かに、「浩介がお世話になりました」ときちんとした声で、優しく礼を返していた。

 それは無理をしている様子でもないのだ。ほんとうに自然体なのだ。そして息子に対する愛情と母親としてのやわらかな勁さがにじみ出ていたのだった。
 通夜の晩、皆が帰った後、私が遺体を守ります、と申し出ると、「ご心配なく、私、浩介の母親ですから、今夜は一緒に寝ます」と、これも静かに、しかし強い意志で言った。

■浩介とのお別れ
 翌日の葬儀の席でも彼の母親は終始静かで、穏やかだった。
 出棺前のお別れのとき「どうしますか」とたずねると、「お友だちの方、皆さんにお別れしていただけないかしら」と、言った。
 目を真っ赤にした友人たちが一人ずつ彼と対面してお別れした。私も最後尾で彼と対面し、別れを告げた。といっても、別れる、という実感があったわけではない。だから彼に告げる言葉がなかった。胸に組まれた手の上に右手を重ねた。

 最後に母親が柩に近寄った。友人たちが遠巻きにしている。緊張した空気が流れるなか、彼女は静かに両手を彼の手に重ねて呟いた。
「いままでありがとう」と、私には聞こえたような気がする。先に逝った息子を恨むでもなく、遺されたわが身を嘆くでもなく、ひたすら優しく息子に声をかけていた。
 寺の門前に停められた霊柩車までの道のりは、会社の友人3人と学生時代の友人3人が柩を運び、それを皆が見送った。このときはある種騒然としたように記憶している。それまで皆が堪えていた悲しみ、非情な運命に対する憤怒のようなものが堰を切ったように噴出し、彼の名を呼び、泣き叫ぶ声が満ちた。私の目からも涙がこぼれた。そして止まらなかった。

 このとき浩介の母親がどうであったのかは記憶にない。自分の嘆きでいっぱいいっぱいだったからだ。
 火葬場での骨拾いの情景は記憶にある。
 最初に喪主として骨を拾った母親は、親族や友人たちが順に二人ずつ組になって骨を拾うのをじっと見つめていた。そして最後に、火葬場の職員を制して、残った骨を一人で拾い、骨壷に収めた。職員は何か言いたげであったが、黙って彼女がするがまま任せた。
 最後の一つを収めた後、そこにいた皆に対して深く頭を下げ、「浩介のために、ありがとうございました」と、言って、また深く頭を下げた。

■四十九日
 四十九日は東京でもたれた。
「お友だちの皆さんに来ていただきたいから」というのが母親の意思だったからだ。
 私の目にわかるくらい母親は痩せていた。心配してたずねた私に「心配ないわ。浩介が一緒だから」と答えた。でも少し不眠気味だとも言った。「浩介のことを考えていると、眠りそびれて、いつの間にか朝が来ているの」
 医師に導眠剤を処方してもらったら、と勧める私に「あの子には私しかいないのだから、息子のために親としての私ができることは、いつも思っていてやることだけだと思うの」と言って、優しく微笑んだ。

 四十九日の集まりは、葬式のときのような緊張感は少し薄れ、やわらかな雰囲気でもたれた。友人たちも彼の思い出を語り、笑いも洩れた。母親も時折微笑みを浮かべて聞いていた。
 同期の女性が立って言った。「浩介君はまじめだったから、いいな、とは思っていたんだけど、仕事以外には一緒じゃなかったんです。でも、きょうの皆の話を聞いていると、浩介君てくだけた面もあったようだし、こんな彼だったら、思い切ってアプローチすべきだったって、いま、すごーく後悔しています」
 大爆笑だった。母親も笑っていた。
 
 会の最後に母親は立って挨拶した。「きょうはほんとうにいい会でした。お友だちもたくさん来ていただけて。浩介の未来の花嫁にもお会いできたし(笑)、ありがとうございました。浩介の葬儀のときは、頭の中は実はパニック状態でした。息子のことしか考えられず、息子のことしか見えず、皆さんにはほんとうに失礼したことと思います。
 浩介は私の宝でした。気が小さく、外面はいいのですが、家の中ではやんちゃでした。でも、人に対する優しさはもっている子でした。

 お葬式のときに感じたのは、私が息子を愛するのは当然ですが、皆さんも息子、浩介を愛していてくださったということです。とてもうれしい想いがしました。  浩介の供養のために私ができることは何か、と考えたとき、また、浩介に皆さんを会わせてやりたいと思いました。きょう皆さんが集まって浩介のお話をしていただき、浩介もきっと喜んでいるに違いありません。淋しがりやでしたから、皆さんの心の中にいられることを喜んでいると思います。
 短い一生でしたが、浩介は幸せだったと思います。親として悔いはありますが、皆様に愛された人生だったのですから。また、そう思って私は浩介と一緒にこれからも歩んでいきたい、ときょうは思いました」

■一周忌
 彼の一周忌は、郷里の山村で営まれた。
 母親の要望で、私は前日からその村に入り、彼の家に泊まることになった。
 電車とバスを乗り継いで、彼の家に到着した。母親は、四十九日のときと比べると少し健康を回復した様子だった。
「遠くまで来てくださって、まあまあ、ありがとうございます。浩介も喜びますよ」
 彼の家は築50年以上にはなるのではないかと思われる大きな旧家であった。広い玄関には明るい花が活けてあった。

「久しぶりなのよ、浩介が死んでから初めてなのよ、この玄関にお花を活けたのは。いつまでもじめじめしていると浩介に嫌われるんじゃないかと思って、きのう思い切って活けてみたの」
 玄関の土間を上がると広い居間があり、奥に仏壇が据えられ、その前に彼の写真と遺影が置かれていた。仏壇にも一輪の黄色の花が供えられ、ロウソクが点されていた。
「まず、浩介君に挨拶させていただきます」
「うれしい。浩介も喜ぶわ」

 浩介の顔は葬儀のときのものだった。1年前と同じなのだが、私にはとても懐かしい感じがした。彼と遅くまで飲んで酔っ払ったときのことや、仕事で彼が私に文句を言ってきたときの様子や、彼が壁に寄りかかって煙草をすっていたときの様子やらが昨日のことのように思い出される。そして悪夢のような彼の急死とその後の嵐を思い出していた。
 写真の前の桐箱に収められた遺骨が心に響くような存在感がある。手を伸ばして骨箱を触ってみる。抱え上げると意外と軽い。これが彼の死なのか。それに触ってみてもまだ彼の死がほんとうには実感できていない自分がいた。

「私、1日に3〜4回、この前に座っているの。ボーっと、浩介の子どもの頃のことなんか思い出しているの。
 そりゃ、何で死んだのよ、と怒ることもある。泣くこともある。泣くとお葬式のこと思い出すのね。お友だちも親戚も泣いてくれた。浩介のために泣いてくれたんだって。浩介はいいわよ。泣いてくれる人がいたんだから。
 また、私がいま浩介のために泣けるというのも浩介がいたからなんだって。最近よ、そう思えるようになったのは。
 以前は浩介がいないことが信じられなくて。きっと東京にまだいるんじゃないかと思ってたりしていた。いまでもときどきそう思うことがある。
 でも、四十九日にはあんなにお友だちが集まってくれたし、浩介の思い出、私の知らない浩介の話を聞くことができた。きょうもあなたに無理を言ったら来てくれた。浩介はいなくなったんじゃない。いるんだと思えるの。
 この仏壇の前に座り、あるいはお水を新しく変えたりするでしょう。ホッとする自分がいるの」

 翌朝起きて仏壇の前に来てみると、きのうと違うピンクの花が挿してあった。母親が朝早くに整えたのだろう。
 そして一周忌は、昼から住職、親族が集まって、自宅の居間で行われた。その後、皆で歩いて寺の墓地まで行き、納骨した。日差しが強く、皆が汗をかいていた。親戚の一人が母親に言った。
「これから忙しくなるね。あなたのことだから、墓参りも毎日するんだろうね」
 彼女は汗を拭きながらにっこり微笑んで言った。
「家でも会えるし、ここでも会えるし、楽しみよ」

■現にある「供養」
 私の供養の原風景というのはこの友人・浩介の母親の姿である。彼女が息子を想い、仏壇の前に座っているとき、水や花を換え、ロウソクを点し、そして墓に参り、水を遣る姿である。供養するということは、心の中で死者を忘れず、一緒にいる、ということではないだろうか。
 死者との交流というのは、ものごとの表面には現れてこないものである。だが、私たちの生活には確実にあるものである。少なくとも死者を想うことを生活の一部にしている人がいる。これは確かなことである。

「供養」は事典で次のように説明されている。

「『塗る・彩る』などを意味するプージャナーの訳。『供給資養』の意味で、仏・法・僧の三宝をはじめ死者の霊などに対して供物を供給してこれを資養する行為で、供施・供給、略して供ともいう」(藤井正雄『佛教大事典』小学館)

「死者などの霊に対して供物を供給してこれを資養する行為」とある。死者の(霊の)ために行う行為が供養であるとするならば、葬式は最初の供養であり、法事はもとより、日常の仏壇前での行為、墓参も供養である。そうした行為のみならず、その前提となる「死者を想う」こと、それが供養ではないだろうか。

2.供養の場としての仏壇


■「仏壇」か「仏檀」か?

 日常の死者の霊への供養の場としてあるのが仏壇である。
 だが、この「仏壇」というのは自明のようでそうではない。
 そもそも「仏壇」と書くのか、「仏檀」と書くのかだって明らかとは言えないようである。
 仏教民俗学者の五来重氏は次のように述べている。(文脈は「葬具としての位牌」である。)

「ところが仏教葬の目標も死者の生前の個性や貴族、貧窮、位階、功罪、善悪等の差別をすべて滅却し、大いなる仏性に帰一せしめるものである。これがすなわち『成仏』であるから、日本人の葬墓原理と一致するのである。『往生』という観念も大いなる弥陀の浄土に帰一するということで、庶民に受容されたにちがいない。ロマンチックな浄土の荘厳の華麗、水鳥樹林の美にあこがれるのではなく、偉大なる仏に帰一して永遠に生きる安心立命であろう。それはまた家の先祖なり氏神として永遠に生きることと、まったく別の理念ではない。位牌はそれと同じ供養の理念を表現したもので、これをまつる仏檀はそのような素朴な庶民の宗教意識の表現である。したがって仏檀の中に位牌をまつってはならないと指導する宗派があるのは、こうした日本人の宗教意識を無視したものといわれてもし方がないであろう。そのような宗派では「仏檀」という歴史的に用いられて来た文字も無視して、寺院の本尊をのせる「仏壇」と檀家の位牌をまつる「仏檀」を混用している。『広辞苑を引く馬鹿、引かぬ馬鹿』にしたがったのかもしれない」(『葬と供養』東方出版)

 確かに広辞苑には「仏壇」とのみ表記され、そこには「@仏像や位牌を安置して礼拝するための壇、A仏龕」と説明されている。五来氏の言うところの寺院の本尊をのせる壇である「仏壇」と檀家の各家の位牌をまつる「仏檀」は合わせて表記されて、同じく「仏壇」とされている。

 広辞苑をもっと明確にしたのが佛教大事典である。そこには「仏像を安置する壇。寺院の仏堂や信者の家に安置している厨子・仏龕、また寺院の須弥壇の総称。儀礼具の一つ」と記され、そこには仏壇は仏像を安置する壇であり、寺院の仏壇も信者の家の仏壇も本質的には相違ない、ということが暗黙のうちに述べられている。
 五来氏が「仏檀の中に位牌をまつってはならないと指導する宗派」と言っているのは、五来氏は明言していないが、浄土真宗のことであろう。
 浄土真宗は立場が明確である。大村英昭氏(関西学院大教授)が常に言うように「仏壇はホームチャペル」なのである。そこで真宗小事典(法藏館)では「仏壇」は次のように説明される。

「仏を安置する壇。一般に先祖をまつるもののように解されているが、真宗では浄土のありさまを表すものとして、位牌を置かない。仏壇は死者のためのものではなく、阿弥陀仏の慈悲に一人ひとりが出会い、家庭生活の中心となるべきものとされる」

 信者の家の仏壇もまた死者のためのものではない。だから仏壇には位牌を置かない、と五来氏と鋭く対立する。
 浄土真宗の立場では、あくまで「仏壇」であって、「仏檀」ではないのである。

■在家の仏壇
 仏壇とは何かについての理解の違いはかなり重要である。単に位牌を祀るかどうか、であれば真宗と他の宗派の違いと理解されればよいことである。
 本来は仏壇、すなわち仏像を安置するための壇であるとするならば、各家の仏壇は各家が属するお寺の宗派の荘厳(お飾り)に合わせるのが当然という理解になるだろう。お寺の本堂のミニチュア版なのであるからだ。確かに「ホームチャペル」である。そこは信心の場なのである。
 しかし、各家の仏壇が、お寺の仏壇とは性格を異にし、死者の(霊の)ためのものであるとするならば、 宗派的理解よりも民俗的理解、つまり死者への慣習的態度のほうが優先されていいだろう。

 五来氏が「仏檀」という表記にこだわる。そしてこのこだわりは捨て難いのだが、現代では広辞苑等の辞書の影響もあって「仏壇」表記が一般的になっている。そこで以下は寺院仏壇(五来氏の言う「仏壇」)と在家仏壇(五来氏の言う「仏檀」)という表記で論を進めようと思う。

 しかし今日、一般的に「仏壇」と言った場合に、寺院仏壇をイメージする人は少ないだろう。ほとんどの場合は在家仏壇をイメージしている。以下、在家仏壇の歴史について考えてみようと思う。
 藤井正雄氏は「わが国において、一般家庭の中で仏壇を祀ったはじめは『日本書紀』の伝える天武天皇の十四年(六八六)三月二十七日の詔で『諸国家毎に仏舎を作り乃ち仏像及び経を置き、以て礼拝供養せよ』といわれたことにはじまるとされます。当時は仏舎とよばれたもので、これが時の経過とともに現在のような各家庭の仏壇の起こりとなったというわけです」と起源を説明している(『仏事の基礎知識』講談社)。
 こうであるならば在家仏壇は寺院仏壇のミニチュア版が起源ということになる。

 近藤豊氏は仏具大事典(鎌倉新書)の「仏壇」の項で、この『日本書紀』の「家毎とは三位以上の有位者か、あるいは地方の郡家という有力な豪族をさすというのが定説であり、庶民の家のことではないとされる」と、この文献が在家仏壇の初見であると認めつつ、現在の在家仏壇と直接結びつけることには慎重である。

 近藤氏は「現在の仏壇に近い物が一般庶民の各家庭に祀られるようになったのは江戸時代」と指摘する。近藤氏は「江戸幕府の切支丹禁制政策による檀家制度、仏壇改めによって全国の家庭に仏壇が設けられるようになった」と推測する。
 その背景には一方で貴族の間での奈良〜平安に至る持仏堂、仏間の建立の流行からの展開があり、他方、庶民間においては祖霊信仰による精霊棚、位牌棚からの展開を推測している。持仏堂、仏間は寺院仏壇の影響が強い。寺院仏壇のミニチュア版、各家版である。他方、精霊棚、位牌棚は、素朴な民俗信仰から発したものである。この2つの流れが江戸時代に一つになったというわけである。

 五来氏が位牌を祀るものとして在家仏壇を想定しているのは後者、すなわち精霊棚、位牌棚からの展開を本質的なものと見ているからである。
 近藤氏は宗派の違いについても言及している。「天台・真言・禅宗では位牌の安置所として仏壇が発生した傾向が強く」「真宗や日蓮宗では古くから形も大きく、座敷に設けられたという」とその違いを指摘している。

 図式的に表現するならば天台・真言・浄土・禅宗が位牌棚型であり、真宗・日蓮宗が仏間型となるのであろうか。
 近藤氏が推測するように本山様式、つまり宗派別仏壇に分岐していくのは明治の宗派確立以降と思われる。これは明治末期以降の家観念の徹底以降に普及し、家の祭祀と深く仏壇が関係していったことによるであろう。この背景には日清戦争、日露戦争という近代戦の死者を家庭ごとに祀るということも深く関係したのではないだろうか。

■仏教文化と民俗の混淆
 在家仏壇は、奈良・平安期以降の貴族あるいは武家の持仏堂、仏間に起源をもち、江戸時代の勃興した商人階級により華麗な仏壇文化として花開き、中期の檀家制度の法制化に伴い大衆化した。
 その大衆化にあたっては祖霊信仰、精霊棚、位牌棚という民俗が大きく影響した。明治時代以降、宗派の荘厳に適合した装飾となり、家観念が強化されると家の祭祀の中心と位置づけられるようになり、家の先祖崇拝の場となってきた。
 仏壇の歴史を概観すると以上のようにまとめることができるだろう。
 仏堂の様子が再現され、経済的な興隆に応じて工芸的にも仏壇は発展してきた。

 各家に仏壇が普及することにより、仏壇はコンパクトにもなってきた。仏壇の形態には金仏壇型と唐木仏壇型とがあるが、唐木仏壇型は明らかにコンパクト形態である。金仏壇が仏間型であり、唐木仏壇は位牌型と分類することもあながちまちがいではないだろう。
 いずれにしても、現在の仏壇の外観はいかにも仏堂のミニチュア版である。寺院仏壇が本尊である「仏」を安置する壇であるのに対し、在家仏壇は家の先祖、つまりは「ホトケ」を安置する壇になっている。仏壇が仏教文化と祖霊信仰という民俗の混淆の産物としてあるということは言えそうである。

■イメージとしての仏壇
 仏壇の外観、あるいは成立の歴史を見てきたが、機能ということに着目すると仏壇そのものの差異はさほど重要ではないように思われる。
 もっとも重要なことは仏壇そのもの形態ではなかった。ましてや仏壇そのものでもなかったのではないだろうか。
 仏壇が、あるいは仏壇のある空間が死者(の霊)に対する供養の場であったということがもっとも肝心なことのように思われる。
 その意味では明治期に観念された「家の先祖」というのも付加的な位置にとどまるのではないか。
 
 一般に流通する「ご先祖様をお祭りする」というのは、考えてみれば抽象的な観念である。そこで具体的にイメージされていたのは死者である家族ではなかっただろうか。
 同じことを言っているように理解されるかもしれないが、「家のご先祖様」という観念は家制度の弱体化によって薄れるが、「死者である家族」はいまでも生々しい現実としてあるのではないだろうか。家族が死者を想う気持ちというのは時代が変わったからといって廃れるものではない。そして仏壇が生き生きと機能し続けたのは、家族の死者に対する激しい、生々しい想いだったのではないだろうか。

 浄土真宗でも位牌は置かれないかもしれないが、過去帳が置かれる。過去帳とは死者の名前を記したものである。確かに仏壇は、仏を礼拝するホームチャペルとしても機能したであろう。真宗や日蓮宗のあの激しい信心の対象であったし、いまもそうであろう。しかしそれは具体的な家族であった死者をホトケとして重ねることによって極めて身近な存在となったのではなかろうか。
 仏壇というのは生者と死者(の霊)の世界との間の扉のような機能をしていたものではないだろうか。生者と死者の世界は厳然と隔てられている。だが、この扉の前に座することによって、生者と死者(の霊)は対話し、交流することができるようになる。死者(の霊)に語りかけることが可能となるし、死者(の霊)の言葉に耳を傾けることが可能となるのである。

 仏壇という装置の意味は、遺族のグリーフワークという視点から再評価されなければならないように思われる。
 仏壇というのは、死者(の霊)と遺族が1対1で向き合う場である。そこで遺族は死者(の霊)に対して自分のありのままの感情をぶつけることができる。
 また、死者(の霊)の側にゆっくりと寄り添うことができる。
 静かに死者と自分の関係を考え直すことができる。
 何よりもいいことは、死者をひたすら深く想うことができる。

■墓と仏壇
 死者に対する供養の装置ということで言えば、民衆にとっては墓と仏壇はほぼ同時期に、江戸時代の檀家制度以降に一般化している。
 遺体の埋葬地としての墓は有史以来存在する。しかし、供養の対象となったのは近世以降のことであろう。そしてこれは仏教が葬祭仏教化することにより民衆化したことの影響と考えられる。
 ここで墓について詳しく論じることは別の機会に譲るが、墓参という行為について、ここでは触れておこう。

 散骨を含めた墓の多様化、家族の変容はあるが、墓参はいまでも廃れていない。1年に1回以上墓参する人は7割を超す。
 このことの意味するものは、死者を覚えて供養するという行為が日本人の生活習慣になっているということである。
 墓には死者の遺骨がある。しかし遺骨そのものは露出しているわけではない。墓や納骨堂に埋蔵ないし収蔵されているのである。

 ここで儒教の論理でつまらない議論を展開するつもりはない。素直な生活実感に伴った表現をするならば、家族は墓参することによって死者に会いに行っているのである。
 墓参を毎日する人もいるが、多くは命日、盆、春秋の彼岸、そのどれかである。
 だが、死者への供養は墓参だけではない。日常の家庭生活でもできる。それが仏壇である。家庭にいても死者の供養ができる。これが仏壇の機能なのである。

■新型仏壇、手元供養
 近年、死者供養の装置にも変化が見られる。
 その一つは伝統的金仏壇や唐木仏壇に代わって新しい生活様式にあったデザインの仏壇が現れていることである。
 ここで注目すべきことは仏堂のミニチュア版であることをやめる傾向にあることである。家の祭祀という役割も負わない。純粋に死者の供養の場として位置付けられていることである。
 もはや「供養」という言葉自体が使われない。死者のメモリアルとしてある。

 もう一つは「手元供養」と言われるものである。
 手元供養は、仏壇が自宅への据置型であるのに対し、携帯可能となった。いつも手元に置いておけるものである。
 手元供養にもいろいろあるが、遺骨の一部をペンダントなどに加工したもの、地蔵像等に遺骨の一部を収納したものなどがある。
 据置型から携帯可能なものになったことにより、いつでもどこでも死者を供養できる、死者との時間をもつことが可能となっている。

 この変化を見て連想したことがある。それは人とのコミュニケーションツールの変化である。
 昔は人と会うためには出かけなければならなかった。それが家に電話が入り、家でいながらにして会話できるようになった。それがいまや携帯電話の時代である。いつ、どこにいても人と会話を楽しむことができるようになった。
 死者とのコミュニケーションツールも同様なのではないか。初めは墓参という墓に行くことで供養し、次に家に仏壇を設け、家にいながらにして供養できるようになり、いまは手元供養でいつでも、どこでも供養できるようになった。

 もっとも死者供養はもともと小型可動型である位牌が出発点であったから、元に戻ったと言うのが適切かもしれない。
 新型仏壇にしても手元供養にしても旧来の死者供養と異なるのは、旧来が仏教的世界のものであったのが、汎宗教的、脱仏教の色彩を帯びていることである。しかし本質としての機能は従来の仏壇が有していた機能と変化がない。
 墓参が廃れないように仏壇あるいはその類似品による死者供養は依然として廃れていない。

3.グリーフワークとしての供養


■グリーフは尊重されるべき感情
 グリーフとは、家族の一員を喪い、悲嘆に陥る人間としての自然な感情である。死別の悲嘆のことである。
 グリーフは、意識的であれ、無意識的であれ、遺族には訪れる。
 ある人は「愛すればこそもつ感情である」と看破した。
 人間は有限であるから、誰も死を免れることはできない。そのことを皆大なり小なり認識している。だから他人の死に対しては、場合により「かわいそうに」と同情することはあっても、極めて冷淡である。感情が動かされることはめったにない。
 悲しいかなこれが現実である。大事故、大災害での死者に同情はするが、それ以上感情が動かされることはまれである。

 だが、家族や身近な人の死の場合はそうではない。心が傷むのである。その傷みは、ときとして他人の同情を拒否し、孤立し、自分を失いかねないほどのものである。絶望、不安、無気力、怒り、後悔、敵意、失意、嘆き…といったさまざまな感情を体験する。
 死別によって家族、配偶者、恋人、友人というそれまで築いてきた関係性が破綻するからである。
死は、家族、配偶者、恋人、友人というそれまで築いてきた関係性を奪い取っていく出来事なのである。だから心が傷む。痛切に傷む。
 その傷みは、しばしば死という事実を否定し、受け入れることを拒否する。それは亡くなった人が不在では自分の生自体が意味をもたない、あるいは死者が不在では自分の未来と言わず、現在そのものがないと感じているからである。

 死別の悲嘆は、現代のように医療が高度に発達した時代にあっては、死の出来事に先行し、徐々に訪れることもある。告知により、あるいは長い延命治療の間に。また高齢社会となり家族が認知症に陥り自己崩壊を始めることにより、介護の間、逃げどころのない悲哀を体験することもある。
 先行してであるか、徐々にであるか、急激であるかは別として、家族、親密という関係の崩壊は、死にゆく人だけではなく、遺された人に大きな打撃、傷みを与える。

 しばしば言われることであるが、「強い信仰心は死別の悲嘆を克服する」あるいは「強い信心があれば死別の悲嘆は経験しない」というのは嘘であり、俗説である。そのようなことを説く宗教家がいるが、その人は人間というものをわかっていない。
 信仰や信心が無意味ではないが、死別の悲嘆というのはそんな生やさしいことではない。また死別の悲嘆は否定すべきものではない。
 グリーフは人間として生きるかぎり極めて自然な感情であり、尊重されるべきものである。

■グリーフプロセス
 一般的なグリーフのプロセスを述べるならば、5段階に分けられる。
 この分け方は研究者によりさまざまであり、アルフォンス・デーケン博士は12段階に分ける。また、5段階とはいっても、その順番どおりには進むとはかぎらない。
 一つの流れとしてとらえるというよりは、それぞれの人の悲嘆の局面として理解したほうがいいかもしれない。

@衝撃(ショック)
 第1は、衝撃である。
 死の事実を受け、衝撃のあまりの強さに取り乱す。現実感覚が麻痺し、情緒不安定に陥る。現実感覚の麻痺―これは家族を失ったという事実を受け入れると自分が壊れてしまうのではないかと、脳が自動的にガードを張るのである。
 衝撃を受けたことで、無反応状態に陥ったりもする。たとえば交通事故死の場合なども、それが現実なのかどうなのかわからないという、非常に不安定な感情に陥りやすい。

A否認
「否認」とは、死の事実を受け入れられず、打ち消すという行為である。
 家族が自殺した場合など、その死を現実だと自分の中では認めたくない。
 一方で、完全否定はせず、医師が死亡判定したことは頭では知りながら、心とか行動ではそれを打ち消すということもしばしばある。
 探索という行動に出ることもある。無意識に死者を探し回るという行動である。
 たとえば、家の中にいて玄関で物音がした場合、死んだ人が「帰ってきたのでは?」と思ったりする。子どもを亡くした母親のケースだと、亡くした子どもの分も自然と食事を用意してしまったり、子どもの部屋をなかなか片づけられなかったりする。反対に死者の好物をもう作れなくなる人もいる。
 死という事実を完全否定するのではなく、頭で理解していながら、感情と行動がそれを裏切るのである。

Bパニックや怒り
 パニックに陥ったり、死の原因を探し、その対象に怒りをぶつけるということもよくある。自分の感情をまったくコントロールできなくなり、パニックに陥る。
 あるいは運命をのろったり、死を誰かのせいにして恨んだり、「自分がこうしていれば」と後悔し、自分を責め、自傷行為に及んだりもする。
 たとえば交通事故死の場合は、事故相手に対して怒りの矛先が向きやすい。また、病死などの場合も、死の原因をなすりつけあって遺族内で争いが起こったりする。同居し、看病していた人に対して、「お前の看病が不十分だったのではないか、もっと長生きできたはずなのでは」と責めたりする家族も出てくる。

 怒りの矛先の向けどころがどこにもなければ、自分に向く場合もある。自殺者が出た家族の場合は、原因を他者に向けることができない。あのとき、自分が家族としてこうしていれば、あのとき電話していれば、と悔やむ。あるいは、子どもを亡くした親の場合などは、過去まで遡り、「こう育てていたら」と後悔し、自分を際限なく痛めつけることすらある。こうした自傷行為は、ひどい場合、肉体的に影響を及ぼす。深刻なうつや心身症を発症する場合もある。

C抑うつと精神的混乱
 長く看病した病人を亡くした家族の場合は、この抑うつ状態が長く続くことがある。
 看病という自分の役割を失い、自分がやるべきことが見つからなくなり、無気力状態になる。「どんなことをしても相手は戻ってこないのだ」と、生き甲斐を失った人のように無気力状態になる。
 また、自分の悲しみは他人には理解されないものなのだと孤独感をつのらせる。

 たとえば、子どもを亡くした母親が、街に出かけると、不幸を知っている知人などに「がんばってね」と言われることがある。すると、逆に孤独を感じることになる。声をかけた人は同情し、励ましたいと思っているのだろうが、「自分はかけがえのない子どもを失った。それでも精一杯がんばっているつもりなのに、まだ足りないのか。所詮他人には理解してもらえないのだ」と不信感、孤立感を招く。そしてうつ的状態となり、引き篭もったり、摂食障害を引き起こしたり、あるいは不眠症になったりする。

D死別の受容
 グリーフには以上のようなさまざまなステージがあるが、最終的に死別の受容にいたる。死の事実を忘れるのではなく、悲しい現実を見つめ、自分の中で受け入れていくようになる。
 やがて、愛する者のいない新しい生活に少しずつ慣れ、日常生活における感覚を取り戻していく。
 人間には復元力が備わっている。心が傷つき、それがたとえ回復不可能と思われても、それを克服していく自然治癒力がある。

■死の状況により変化するグリーフ
 現代において、このグリーフのステージはさまざまである。
 たとえば、癌患者の場合。告知を受けると本人もグリーフのステージをたどるが、家族も、病人の死が避けられないと予告されることにより、グリーフを先取りする。
 これは「先取りされた悲嘆」とか、「予期悲嘆」とか呼ばれるものである。このような場合は、死の最終局面において、家族は病人をもうこれ以上苦しめないでほしいと願うが、その人が死ぬことによって一種の解放感のようなものを体験する。

 しかし、その解放感のしばらく後に忍びよってくるのが、役割を果たしたことによる、ある種の無気力状態である。これが高じると、その後かなり長い間、抑うつを経験するケースもある。
 現代では病人が患者を見守り、看病するということが、医療機関での完全看護制度のため、必ずしも保障されない状況にある。そのような場合は、家族は、病人を医療機関か施設に預けて、看病を依頼した段階で、家族としての「切れ目」をつけてしまうことがある。

 看病、介護の役割は、それ以降は医療関係者や施設で働く人たちに委ねられる。そうすると、患者の死後、あらかじめ死を予測し、覚悟ができている家族よりも、最期を介護した医療関係者・施設関係者が家族以上の悲嘆を経験する場合がある。これは「悲嘆の代行行為」などと呼ばれるもので、これからはこのようなケースが増えてくるかもしれない。

 家族関係が複雑化してきて、家族皆で死を看取るということは少なくなりつつある。死を看取るのは家族の中でも1、2人というケースが多い。そうすると遺族の中にグリーフの温度差が出たり、グリーフの方向性が親族内でも個人によって違ってきたりする。最期の看取りをした人はある種、充実感をもっているかもしれないが、離れて暮らしていて看病にも直接携わっていなかった遺族は、急速な悲嘆に襲われたり、あるいは死の実感を持てないことも往々にしてある。あるいは、看護に対して不満や怒りを抱くこともある。

■グリーフワーク
 グリーフワークとは、しばしば誤解されるが「死別の悲嘆の癒し」ではない。
 そもそもグリーフワークとは、死別を体験した、家族の喪失を体験した遺族自身がなす作業である。
 それは安易な悲嘆の克服ではない。ましてやグリーフを忘れることではない。それは自己の悲嘆を見つめる、ある意味で辛い作業であると言えよう。だからといって特別なことを課す作業ではない。グリーフがグリーフワークを要請するのである。

 グリーフプロセスを先に述べたが、グリーフワークとは、よりよいグリーフプロセスを辿るための遺族の作業と言ってもいいだろう。
 グリーフとは自然な感情であり、人間は復元力をもっている。だが、対処を誤ると深刻なうつ状態に陥り、また、心身症を引き起こすこともある危険性もまた潜めている。遺族が適切なグリーフワークを営むことは重要であり、これを傍らで見守り支援するグリーフケアもまた大きな役割を負っている。

■死の事実を見つめる作業
 グリーフワークの第一歩は、死の事実を見つめる作業である。死の事実から目を逸らさないことである。
これは痛みを伴う作業である。できれば死という事実がなかったことにしたいと思う。現実ではなく、夢であればいいと願望する。その事実の前から逃れたいと思う。だが事実なのである。

 葬儀がグリーフワークであるというのは、死の事実の認容という点にかぎっても言える。例えば、医師による死の宣告、末期の水、納棺、あの世に送るために葬儀をすること、出棺前のお別れ、火葬、火葬後の拾骨…これらの作業は全て死という事実を遺族に突きつけ、確認を強制する作業である。
 葬儀をしない、あるいは近親者だけの閉ざされた範囲のみで行う、ということは、死の事実を公にしないということで、死の事実性を曖昧にする危険がある。

■悲嘆の表出作業
 第2は、悲しみ、嘆くことである。悲嘆の表出という作業である。
家族を喪うことは当然にも悲しい。いのちを奪われたことへの怒りを覚えることもある。こうした自分のグリーフの感情に対して、抑圧するのではなく、自然に表出することである。
 突然のことで感情が麻痺し、悲しみが表出されにくいこともある。このため周囲は緊張を強いるような環境を与えず、遺族が一人になれる時間、遺体とゆっくり向き合う時間を作れるよう配慮する必要がある。また遺族の想いを聞き、心を解き、自然な感情が発露しやすい環境を用意する必要がある。

 悲しむということは極めて大切な作業である。家族と死別し、悲しむというのは自然な感情である。これを抑圧するということは心に歪みをもたらす。
 葬式は社会的儀礼だとだけとらえると、この遺族の極めて私的な個人的感情の処理という面を蔑ろにしがちである。遺体としばらく向き合える時間を作ることは、遺族が外の人に気遣うことなく、悲しめる、泣ける時間を提供するということである。

■死者を弔う作業
 第3は、死者を弔うことである。死者のことを深く想い、死者のために弔うことである。
例えば、臨終で枕経を一緒に勤める、死化粧に参加する、故人らしい遺影写真を選ぶ、故人の出棺に際し花を捧げる、手紙を書いて柩に入れる、7日ごとに供養する、仏壇の花を取り替える…死者の弔いのために自分のできることをすることである。

 葬式を出すということは重要な死者のための弔いである。葬式をしないことが流行りのようになっているが、グリーフワークの観点から言えばプラスではない。本人は家族に迷惑がかからないようにと善意で「葬式をするな」と言い残すことがある。だが遺族の感情を考えたものではない。
 葬式の規模は問わない。小規模の葬式でもいい。遺族が死者をきちんと弔ったという形にすべきである。弔いは遺族の義務ではなく、権利なのである。

■死者の再評価の作業
 第4は、死者と自分の関係を見直すことである。死者の再評価と言っていいだろう。
 死者と自分の歴史、こんなことがあった、あのときはどういう想いだったか、うれしかったこと、辛かったこと、ときには後悔した出来事、交わした会話…そうしたことをランダムでいいから思い出し、死者が自分にとってどういった存在であったか、あるいは自分は死者にとってどんな存在であったのか、見つめ直す作業である。

 思い出の写真をアルバムにして整理することでもいいだろう。死者に対して自分のいまの想いを手紙にして書くのもいいだろう。家族で死者の思い出話をするのもいいだろう。
 死者が自分にとってかけがえのない存在であったことを自分の中で再発見することである。それは時には悲しみをぶり返すことになるかもしれない。焦らず、ゆっくりとでいい。また、まとまった作業にならなくてもいい。死者の服を整理するなどもこのためには有益である。
 死者が遺族にとって心の中でかけがえのない存在であると再評価できたとき、グリーフワークは終結を迎える。

 死者が配偶者、子という関係にあったとき、ある意味で死者と遺族は相互依存の関係にあった。それが死によって強制的に切り離されるのである。遺された者は不安に怯える。その死者が心の中で位置付けを与えられ、これからの生を共に歩むという気持ちになったとき、新しい死者なき世界に歩みだす勇気が与えられるのである。
 死者を忘れ去ることでグリーフ(悲嘆)から脱却するのではない。死者が遺族の心の中に入っていくことによりグリーフを克服できるのである。それは死という事実がなかったかのように日常生活に復帰するのではなく、かけがえのない人の死という事実を経た新しい日常を創造していくのである。

■供養はグリーフワークである
 私は「供養」というのは、遺族にとって大切なグリーフワークであるし、また、供養はグリーフワークとして位置づけられる必要がある、と考える。
 四十九日、百か日、一周忌、三回忌は特に重要である。死者を忘れるのではなく、死者を思い起こす時であるからだ。確かにこうした死者の記念日は、記念日症候群と言い、しばしば悲嘆のぶり返しの機会ともなる(記念日症候群には故人の誕生日、結婚記念日などに際しても生起する場合がある)。
 遺族は一周忌(人によっては三回忌、四回忌くらいまで)までは精神的に落ち着かず、精神的混乱の中に置かれる。

「喪中」とはよくできた人間の知恵、文化である。大切な家族を喪った遺族は喪に服するのである。喪に服するとは、死者の供養に専心するということである。また、遺族が喪に服することを周囲は承認することである。
 喪中にある遺族は、日常生活では仏壇の前で、あるときは墓参し、死の事実を確認し、誰に憚ることなく悲しみ、嘆きを表出し、死者を深く想い、弔い、死者と自分の関係を見直す時をもつのである。
 こうした供養がグリーフワークとなって遺族の再生、死者との新しい関係づけが可能となるのである。
 われわれ日本人には、死者を供養するという慣習があり、その供養を保証する喪中という文化があり、供養を可能とする仏壇という装置があった。このことをグリーフワークという視点から再評価される必要をいま強く感じている。




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