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碑文谷創(2006.9)
■時代とともに変貌する葬送
■共同体の葬送から個人の葬送へ
■斎場時代へ
■墓の革命
■死者を悼むということ

■時代とともに変貌する葬送

 葬送とは、伝統と習俗の塊のように映るが、実は社会の変動に応じ、変化してきたというのが実態である。
 今では日本的葬送の典型と思われている宮型霊柩車は、大正前期に当時のモータリーゼーションの流れの中で登場したものであり、しかも最初は当時のアメリカの霊柩車を輸入したものが、昭和の前期にかけて輿型にデザインを改めたものであった。そして東京、大阪、名古屋といった大都市部では、それまでのメインイベントであった葬列が霊柩車に取って代わられるようになるのである。
 この霊柩車の登場にしろ、明治末期から推進された火葬にしても都市化という波のもたらしたものであった。

 墓にしてもそうである。いまは墓石に「山田家」など家名を彫る家墓が主流であるが、それも明治民法の施行により家意識が高まり、また同時に普及した火葬とあいまって作られた形である。
 葬列そのものにも変化が見られる。江戸時代には昼の葬儀が禁止されており、遺族集団と仲間の地域集団による小さな、それこそ野辺送りという名称がふさわしい葬列が中心であった。葬列の道具も紙や木でできた粗末なものであった。だが昼の葬儀が解禁となり、明治中期に商人階級が勃興し、都市部では金銀の飾りの葬具、柩を運ぶ輿が考案され、大規模な葬列が派手やかに街を練り歩くようになった。そしてそれも霊柩車に取って代わられたのである。

 葬儀の象徴とも言われる祭壇は、葬列が廃され、告別式となり、その告別式用の装飾壇として登場したものである。
 これは葬列の中心であった柩を運ぶ輿に仏壇型のデザインを施した。
 日本は99%の火葬率で、世界一である。起源は古い。記録上は700年の僧道昭の時からであるが、5世紀後半の遺跡調査で焼骨が発見されているから、かなり古くから行われていたことはわかる。だが普及していたかというと疑問符がつく。火葬されたのは貴族・武士階級を中心にしており、江戸期以降は大都市部で普及したが、一般庶民となると土葬が多かった。明治29年のデータでは火葬率は26.8%にとどまっている。火葬が飛躍的に伸びるのは明治30年の伝染病予防法制定以降のことである。近代国家として公衆衛生に配慮した行政の対応によるものである。昭和15年55.7%と火葬率は過半数を超えた。

 火葬、宮型霊柩車、告別式、祭壇といったこれまでの葬儀の象徴も、これが全国的に普及するのは50年代末期以降の戦後復興を待たなければならなかった。
 都市部では火葬、宮型霊柩車、告別式、祭壇、そして葬儀社による葬儀が営まれ、郡部では土葬、リヤカー、野辺送り、地域共同体による葬儀が営まれていたのである。

 60年代の高度経済成長は葬送の世界を大きく変えた。葬儀の運営主体が地域共同体から葬祭業者へ外注するものになったこと、民衆までが「人並み」の葬儀を求め、見栄えのよい、会葬者の多い葬儀に走った。宮型霊柩車には金色が施されて竜が舞い、祭壇は大型になり蛍光灯で彩色され、出棺時には鳩が飛ばされ、という具合である。

一方、戦前は階層社会を反映し、一部の有力者や檀家総代にしか許されていなかった戒名の院号、居士・大姉が民衆は、庶民がお金を出せば手に入れることができるものになった。「戒名料」が云々されるようになったのはこれ以降のことである。経済の民主化の産物である。
都市化の波で都市に移住してきた人々は、第二のマイホームならぬ家墓を求めた。家墓形態をとっているものの核家族墓である。この需要に応えるために大規模な墓地造成が行われることになる。

 人の死ということで言えば、55年の統計では自宅での死が76.9%と圧倒していた。この年、病院での死はわずか12.3%である。これが急速に自宅での死をなくし、病院での死が一般化するところとなる。
葬儀の場所もほとんどが自宅であり、一部の大型葬が寺院で営まれていた。

■共同体の葬送から個人の葬送へ

 92年のバブル景気崩壊を契機として葬送の世界は再び大きな変貌を余儀なくされた。
 その前兆はすでに80年代に見られる。がんによる死者が全体の死者の3割を占め、そのターミナルの看取りのあり方が論議されるようになっていた。延命治療優先の医療のあり方に疑問符が付けられ、いのちの質が問われるようになった。これは高度経済成長とともに発展した医療の質への問いかけであると同時に、第二次大戦での大量死という悪夢を背負い、死をひたすら隠蔽してきた戦後社会のあり方への問いでもあった。死の自己決定権、尊厳死がおおっぴらに議論されるようになった。

 斎場(葬儀会館)が本格的に登場し始めたのも80年代である。これが90年代に花開く「斎場時代」の先駆となる。
 だが、この斎場は、別名「式場」とも言われたように、会葬者を道路から屋内へ引き入れるための施設であった。自宅や寺院で葬式をすると屋内に収容できるのは、限定された人たち。そのため多くの会葬者は屋外で立って待たなければならない。冬は寒く、夏は暑い。雨の日は傘を差さなければならない。屋内であれば会葬者に不快な気持ちを与えることはない。

 また、この斎場は、当時は葬式の大型化に対応するための施設だったということも留意しておく必要があるだろう。特に自宅であれば飾る祭壇にも限度があるし、そのパフォーマンスも限定される。斎場は大型化する葬式の演出空間として用意された。葬式の社会儀礼としての純化の結果としてのイベント化、そのための舞台装置という意味をもったのである。

 80年代後半になると、家族のあり方との関係で墓が問題の遡上にのぼるようになった。戦後の墓は戦前の家墓(イエハカ)とは異なり核家族墓と実態を変えていたが、システム上は家墓の慣習を引きずっていた。当然のことながら核家族化が進行することにより、子どもは女子だけはもとより、子どものいない人も多く出てくる。また、単身者も少なくない。
 こうした男子の継承者をもたない人は戦前は例外的なかわいそうな人、つまり無縁の人と扱われていた。家族形態の多様化と人の生き方の多様化の中で、従来の承継者を前提とした家墓システムでは墓ももてないかもしれない人たちが大量に出現していた。

 戦前・戦後にあった「死後の安心保障体制」の崩壊である。親は子を育て、その子は親の老後の世話をし、親の死後は葬式を出し、その墓を守る、という安心保障体制が崩壊したのである。高度経済成長の都市化の中で、子は家を出て核家族を営むか単身かで、親の老後も死後も面倒を見ない。そうした自分たちは次世代に老後も死後も託せない。
 そうした承継者をもたない、あるいは承継者に期待しない人たちの需要に合わせるようにして出現したのが永代供養墓である。承継者がいなくても入れる墓ができたのである。

 バブル景気の崩壊は葬式の世界も変えていくことになる。立派な祭壇を飾り多数の会葬者を集めることが死者を手厚く弔うことである、という高度経済成長が作り出した葬式神話にひび割れが生じるようになった。
 大型祭壇が流行らなくなり、葬式を誇示するが如き花環、樒(関西)の林立が次第に姿を消してくる。バブルの盛りの91年に民間会社が調査したところ平均会葬者数は280人、そのうち生前の死者を知る人は3割にすぎなかった。7割を他人が占める葬式への、あまりに社会儀礼に偏した葬式への疑問が生じるようになった。そして葬式を支えた地域共同体の解体、親戚の親和性の弱まり、その後のリストラがもたらした会社信仰の崩壊は、葬式の基盤を揺るがしていた。

 95年に「家族葬」という言葉が登場する。それまでは身内だけで営まれる葬式は「密葬」と言われていた。だが、密葬という言葉がもつ閉鎖され、秘密にされたイメージから死者に対する温かな別れをイメージさせる家族葬という名称を与えられ、家族葬は急激に市民権を得ていくところとなった。
 もとより家族葬には厳密な定義はない。数人の家族だけによるものから60人程度の葬式まで幅広く用いられる。あえて定義するならば、家族を中心にして本人をよく知る人による葬式となる。高度経済成長期にあったお客さん中心の三人称主体の葬式ではない。二人称主体の葬式ということである。

 葬式の会葬者数は全体に減少しており、05年の平均会葬者数は132人(公取調査)でバブル期の半分以下になっている。
 もちろん日本列島は広く長いので、日本全体で家族葬が主流になっているわけではない。だが確実に言えることは葬式というものが暗黙のうちにもっていたコンセンサスが失われ、選択肢が多様になってきたということである。
 その極端な一つに、葬式をしない、火葬だけの「直葬」がある。葬式という儀礼そのものを排する動きである。だが、この理由も一様ではない。弔いの儀礼よりも死者との別れに重きをおくものから、死者に対して何の感慨をもたないために単なる死体処理として行うものまである。

■斎場時代へ

 90年代の葬式の外形的変化の最も大きなものは、葬式が自宅で行われなくなり、斎場(葬儀会館)で行われることが主流となったことである。
 斎場は当初は葬式の大型化に対応して広い式場を提供することが主眼であったが、消費者が求めたのはそうではなかったように思う。

 消費者は、自宅で葬式をする必要がなくなった。家を片付ける必要がなくなった。何よりも遺族の女性が忙しく動き回る必要がなくなった。斎場で葬式をすれば面倒ではないし、快適である。これが消費者が斎場の利便性を受け入れた理由である。
 また、地域共同体の弱まりもこれに拍車をかけた。斎場で葬式をするのであれば、コミュニティの成員が総出で手伝いをしなくても葬式ができるようになる。また、都市部では葬式へのコミュニティの係わりを疎ましく感じていた人々もいた。これも斎場を受け入れた大きな要因であろう。

 また、斎場利用が一般化することにより、地域コミュニティが葬式を出すという性格が変化してくる。消費者である遺族が葬祭業者に依頼して葬式を出す、というものに変わってきた。地域の葬式習俗も一変することになる。担い手を失うからだ。
 斎場化に伴い、葬祭業者の提供するサービスの内容も質も変わってきた。それまでは葬具の調達、祭壇を始めとする式場の設営、といった物の提供、工事施工が中心であり、まさに「男の仕事」であった。折衝も遺族というよりはコミュニティの実力者との折衝であった。

 だが、葬式の場が斎場になることによって、折衝対象は遺族となり、遺族の女性の発言、感覚にも対応しなければならなくなった。今までは折衝、設営という限定された時間に遺族と対応すればよかったのが、通夜、葬儀と2日間遺族は斎場内で暮らすのであるから、それへの対応が迫られることになる。
また、自宅や寺院であれば会葬者の案内はコミュニティや会社の人が手伝ってくれたものが、接客、案内、それに料理提供、その接客も全て葬祭業者の提供するサービスに変わってきたのである。

「葬祭サービス業」という言葉が提唱されたのは60年代の末であるが、90年代になり斎場時代を迎えることにより、いやがおうにも「葬祭業」「葬儀業」から「葬祭サービス業」への変質を余儀なくされた。会館でのサービスは、それまでの「男の仕事」から「女性に適した仕事」に変質したのである。それまで要求された職人的技能に代わって、細やかな配慮を必要とする仕事に変わることになった。また、女性の葬式現場への進出には女性の働く意識の変化があったことも見逃せない。道具の片付け等の力仕事でも女性が進んで行い、戦力となった。

 こうした変化の中で斎場の要求される機能も大きく変化するところになる。
 最初は式場がメイン施設で遺族控室は付属の設備であったのが、遺族控室が式場に劣らぬ機能として要求されるようになった。
 遺族がグリーフ(死別の悲嘆)を抱え、心がせわしい状態の中で、静かに、煩わされずに、しかも自宅同様に寛いで過ごせる空間であることが重要となったのである。
 まさにフューネラルホールからフューネラルホームへの転換である。

■墓の革命

 私たちは80年代末の永代供養墓の登場から、90年代前半に葬送の自由をすすめる会が「自然葬」として提唱した散骨、90年代末に岩手県一関で開始され、その後各地で展開されるようになった樹木葬に至り、現在進行形にある墓の変化、供養の多様化を「墓の革命」と呼んでいる。

 永代供養墓は家という呪縛からの解放であり、個々人の生き方の尊重を墓という舞台で実現した。散骨(自然葬)は墓という装置そのものから解放し、人は死後大自然に還るというロマンを提供した。そして樹木葬は、人は死後、家や墓石というものから自由になり、墓が自然を脅かすものではなく、墓が自然保護を行うという夢を提供した。

 既存の墓地も大きく変容している。すでに女子には承継を認めないというのはお笑い種となり、女子でも、場合によっては友人にさえ承継権を認めるようになってきている。和型の三段墓に対し横置きの洋型墓が人気となり、個性的な墓石も珍しいものではなくなっている。ガーデニング墓地もある。
 永代供養墓は公営墓地では「合葬式墓地」と名前を変えて一般化している。

 散骨は一時、刑法190条の遺骨遺棄との関係で論議があったが、法解釈としては「葬送を目的として、相当の節度をもって行うならば違法ではない」が一定の合意を獲得している。だが、「相当の程度」が、細かく原型が残らないよう粉骨し、他人の嫌がらない場所でという原則は合意するも、一部の町村で散骨禁止条例を打ち出す等の障害も起きている。

 樹木葬は墓地として許可を受けた区域で行うのだから散骨のような問題はない。但し、墓石を設けず代わりに樹木を植え、墓域を設けず、自然の中に焼骨を埋蔵するという方法が、従来の墓石並立型の墓地を前提とした墓地行政に合致しないため、墓地としての許可が難航している。代わりに従来型の墓地の区域内に樹木葬区域を設ける方法が流行している。
 これらの変化はわずか10年余りにして起こったことである。それだけ葬送の世界は制度疲労を起こしており、現代日本の生活者の実態に合わなくなっていた証左でもあろう。

■死者を悼むということ

 葬送の歴史は古い。古いなどというものではない。人間の有史以来あることである。
 フランスの歴史学者であるフィリップ・アリエスが「たしかなことは、人間が死者を埋葬する唯一の動物だということです」(『図説 死の文化史』福井憲彦訳)と看破したように人間の生き方の根本にあることである。
 古来、葬送というものは日本に限らず地域共同体の行事としてあった。それは人間が地域共同体と共に生活を営んでいたからである。それだけではない。このことは死というものが遺族に対してもたらすグリーフ(死別の悲嘆)の大きさ、強さを表現するものであった。

 そのコミュニティにとってその一員が死亡すること自体も大きなことであったが、家族がその負担を背負うことがコミュニティ全体にとって損害だったからである。それゆえコミュニティは葬式の実務的負担は遺族に代わって執り行い、遺族は喪に専心することを保証したのである。
 それは遺族にとってのグリーフの大きさをコミュニティの成員は理解していたからである。自分が家族と死別したときは、他の成員が手伝ってくれる。その代わり他の成員が家族と死別したときには何がなんでも助けに馳せ参じる。

 日本ではこのことを「義理」と表現してきた。例えば四十九日は忌中と言い、これは死穢観念に取り付かれている部分もあるが、この慣習を心情的に支えていたのは遺族のグリーフに対する周囲の共感であったろう。
 葬式や埋葬が地域の慣習と深く結びついていたのはコミュニティが主体となって営まれていたからである。
 日本の葬式は、時代と共に形態を変えながらであったが、コミュニティ主体という形を崩さなかった。高度経済成長期以降はこれに企業共同体である会社が加わった。そしてこの核には血縁共同体である親族、親戚が位置していた。

 90年代以降明らかになったのは、この遺族のグリーフを支える血縁、地域、会社という共同体の影がめっきり薄くなり、ある意味で遺族の孤立化が始まったということである。
 その要因となったのは、高度経済成長期以降、葬式が原点を忘れ、社会儀礼偏重に陥ったことにあるだろう。
 葬式とは、死者を悼み、グリーフにある遺族に共感を寄せるということであろう。かつての通夜が、ある人が「ねんごろに」と表現したように、ねんごろに近親者が死者と過ごす時間を保証するものであった。

 その遺族が死者と別れるための充分な時間を侵食し、社会儀礼に走ったのであれば、葬式そのものが機能しない。かつては通夜は死者と親しいごく少数だけで守り、ほかの人は葬儀に会葬したから「葬儀・告別式」と称したが、今や通夜への会葬者が多く、「通夜・告別式」になっている。
 死の事実を確認するためには周囲の共感が必要であり、そのため葬式は閉じられることは必ずしも望ましいことではない。

 J.W.ウオーデン『グリーフカウンセリング』(鳴澤實監訳)によれば、遺族がなすグリーフワークとは「悲哀の課題を遂行するための努力、作業」である。死が事実であることを辛い中にも受容することそれがグリーフワークの第一歩である。そのためにこそ葬式はあるのだと思う。

 これからの時代、危惧することは「死者への冷淡」な雰囲気の拡大である。直葬の流行、安価な合葬墓への遺骨遺棄するが如き始末の横行に危険を感じるのは私だけだろうか。葬送は死者への想いの集積である。




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