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◆お葬式はなぜするの

 北イラクにシャニダール遺跡というのがあります。これは約4万年前のネアンデルタール人の残したものです。そこに共同墓地があり、人骨の周辺から花粉が発見されました。このことから死者を葬るに際して花を供えていたこと、何らかの弔いの行為を行っていたことが推定されます。つまり人類は有史以来、人の死にあたって葬儀を行ってきたのであり、人の死は葬儀を必要としてきたといえるでしょう。

 家族や身近な人との〈死別〉というのは、体験するとわかるのですが、想像する以上に精神的に大きな出来事です。強いダメージを与える出来事です。
 死は、天寿をまっとうしての死ばかりではありません、長い苦痛を伴った療養の末の病死であったり、突然の事故死・災害死であったり、はては犯罪に巻き込まれた死であったり、心の病の結果としての自死であったり、戦争での死であったり、それはさまざまです。その死が囲む人間関係も多様ですから、それぞれの生が独自であるように、一つとして同じ死はありません。その固有のいのちが喪われるということは、死にゆく人だけではなく、遺される人にも固有の深い喪失を、悲嘆をもたらします。この死・喪失によってもたらされる悲嘆が葬式という行為を促し、その悲嘆のプロセスが葬式そのものの内的なプロセスとなっているのです。

 葬式にはその他の機能もあります。地域や社会の中で生きてきた人の死を社会的に告知し、認知すること、死後間もなく発生する遺体の腐敗から死者の尊厳を守るために埋葬ないし火葬に処すること、死者の魂をあの世へきちんと引き渡すこと、などです。特に死者の魂の行方については心を砕き、このため宗教儀礼が大事に営まれました。死者の魂の行方とは、同時に遺された人が死を事実として受け入れ、死者の魂を大切なものと認識し、故人亡き後の自分たちの生き方について考えることでもあったのです。

 葬式は死者を忘れるためにあるのではありません。葬式は故人の一生を閉じるための大切な営みであると同時に、遺された人が故人のいのちを引き継いで生きるための準備を促す機会でもあるのです。
 別な言い方をすると、葬式を営むということは2つの「ソウ」から成ります。一つは亡くなった人を喪って悲しむ「喪」であり、もう一つは遺体を処理し葬る「葬」です。死別を悲しむことは人間として極めて自然な感情ですし、遺体を葬ることは遺された者の当然の責務です。だから「お葬式はなぜするのか?」ではなく、「人の死はお葬式を必要とする」というべきでしょう。

◆お葬式はどうあるべきか?

 特に平成になって以降、お葬式は大きく変容しました。多様化したと言ってよいでしょう。キーワード的に挙げるなら、個性化、こぢんまり化、自宅離れして斎場(葬儀会館)での葬儀に、地域コミュニティの葬儀から個人化、という現象です。

 しかし、葬式の形態がいかに変化しても大事にされなければいけないことがあります。ここでは二つあげておきましょう。
 その第一は、故人との別れを充分に行うと言うことです。愛する者の死は心に受け入れ難いものです。死者と向き合い、触れて、それまでの死者と自分との関係、思い出、自分にとってどういった存在であったかを考え、時間をかけてお別れすることです。家族がこのお別れを充分にすることが何よりも大切です。
 第二は、家族がお葬式に参加することです。どの写真が故人らしいかと遺影を選ぶ、死化粧に参加して旅立ちを整える、納棺を自分たちで行う、通夜で家族が分担して死者を守る、故人にふさわしい花や音楽を選ぶ、会葬礼状に自分たちの死者への想いを書く…やれることはたくさんあります。遺族が弔いの主体であることを忘れないことです。

◆これからのお葬式

 戦後のお葬式が、とかく祭壇を大きくするといった外面を飾り立てること、遺族の悲しみよりも会葬者に失礼のないようにという気遣いを優先しがちであったことは反省すべきでしょう。
 しかし、「簡素に」という主旨はいいのですが、安易に、手軽に行われる傾向が見えるのは心配です。
 人間のいのちは重く、お葬式はその人生を集約したものとしてあります。厳粛に心して営む必要があるでしょう。参加する人それぞれが、いのちについて具体的に感じ、考える時、それが葬式であるべきでしょう。



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