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碑文谷 創
■「無宗教葬」の用語は適切か?
 日本人には「無宗教」が多いと言われる。だが、この「無宗教」は、国際的には誤解を招く表現である。「無宗教」とは「宗教を信じない」ことを意味しているからだ。やさしく表現するなら「神も仏も信じない」ことである。
 日本人に、言葉の本来の意味での「無宗教」の人がいないわけではないが、多くはそうではない。「特定の宗教宗派に属していない」ことを意味することが多いからだ。
 
 実は「無宗教葬」にも同じことが言える。「特定の宗教宗派の儀礼にのっとらない方式で営まれる葬儀」という意味で用いられる。
 だから、ある人は「超宗教葬と呼ぶべきだ」と提唱する。弔うという行為には何らかの宗教的感情が伴うのであるから「無宗教葬」と称するのは適当ではないという主張である。
 僧侶や宗教者を招かなくても、そこに死者を悼んでの黙祷が行われるなら、それは「無宗教葬」ではあり得ないという主張である。
 もし「宗教を信じない」意味での無宗教葬であるならば、葬儀式はないはずである。故人とのお別れである告別式のみがあるのである。だが、故人を弔うことはするが、その方式は特定の宗教宗派の儀礼方式にのっとっては行わないという意味での無宗教葬であるならば、(あえて独立して営むだけの内容をもちうるかどうかは別として)葬儀式はある。

■無宗教葬の方法
 最近では「無宗教葬の式次第」や「無宗教葬用の祭壇」を用意している葬祭業者もいる。「無宗教葬はどうやったらいいのですか」と質問してくる消費者もいる。「無宗教葬」という決まった方法があるみたいである。
 しかし、「曹洞宗の喪儀法」「カトリックの葬儀」「神葬祭」と並んで「無宗教の葬儀」があるわけではない。
 特定の宗教宗派の儀礼方式によらないのが無宗教であるから、決まった方式がないのである。進め方は自由である。
 だが「進め方は自由」と言われると困ってしまう。そこで多少通常の葬儀式の進め方を参考にして、そこから特定の宗教色を排除したものを「無宗教の葬儀」ということで示すことになる。
 そこでわれわれもこの例を一つ上げてみよう。
 
  1前奏曲
  2献灯
  3開式の挨拶
  4思い出
  5黙祷
  6葬送の言葉
  7代表献花
  8遺族代表挨拶
  9一般献花
 10閉式の挨拶
 11後奏曲
 
 音楽が使われるのは最近の流行でもあるが、お経の音楽性の代用という意味もある。
  4の「思い出」はビデオやスライドを用いて故人の生涯を振り返るというものだが、代わりに葬儀委員長の式辞で生涯を振り返ることもある。
  6の「葬送の言葉」は弔辞のことで、「弔辞」「お別れの言葉」としてもいっこうにかまわない。
 告別方法は、無宗教葬では献花が定番になっているが、焼香でもよい。
 先に火葬を済ませていれば、 3の「開式の挨拶」の後に葬儀委員長、喪主による「遺骨入場」がある。参列者は立って迎える。同じく、 9の「一般献花」の後には「遺骨退場」が来て、これを参列者が立って見送る。
 火葬場に向かう場合には、近親者によるお別れの儀(柩に花を添えての対面)を経て出棺する。このときには宮型霊柩車を使用しない。
 ここで「思い出」あるいは「式辞」は読経や引導の役割に対応している。もちろん無宗教葬に定式はないから、これは一例にすぎない。

■「無宗教葬」への障壁
 実際に「無宗教葬」への期待は高まっているものの、実施するとなるとまだ少数にとどまっている。
 密葬や小型葬が明らかに増加の傾向が見られるのに比べると、同じ新しい潮流としてもて囃されている無宗教葬はまだ少ないのが実情である。都市部ではそれでも五%内外あるが、全国的には一%以下といったところである。
 日本人の三分の一は非宗教層なのになぜ少ないのだろうか。
 
1慣れていない
 単純な答であるが、これは大きい。数が少ないから慣れていない。したがって特殊に見られる、変わり者に見られる、と危惧するのである。
 密葬でもないかぎり葬儀は社会性を帯びる。社会から奇異に思われないかという不安は大きい。
 また、仏式葬であるなら慣れていて対処にも不安がないが、不慣れな無宗教葬だとどう対処していいかわからないという不安がある。
2成仏しない
 宗教儀礼の本質は(各宗教宗派の位置づけは別として民衆が理解したところによれば)、死者を彼岸(あの世)に受け渡すことにある。「成仏する」という表現は無事に死者をあの世に送ることを意味している。宗教儀礼の伴わない無宗教葬であればそこの点がどうにも不確かである。
「無宗教葬では成仏できない」とする不安は大きい。
3日常性の延長
 葬儀は人の死に伴うものであるから、精神的な危機に陥らせ、悲嘆、惧れ、不安、といった心理を招く。こうした危機は死者の霊が荒れていることの反映として見られたため、鎮魂、遺族の危機心理の鎮静として宗教儀礼は機能した。非日常性に対処する宗教性があった。無宗教葬ではもの足りなさがある。日常性の延長でしかない不満がある。
4無宗教葬への拘りが少ない
 無宗教葬はいいなと思っていても、特に意識して無宗教葬を選んでいる人は少数派である。漠然と選んでいる。だから親戚その他から異議が出ると簡単に覆るという性格をもっている。特定の宗教宗派に属していないから無宗教葬という消極的理由を根拠としたものであるから、一応の形式としての宗教儀礼の提案に対しても抵抗力は弱い。

■無宗教葬が選ばれる理由
 無宗教葬の実施はまだまだ少数派であるが、これに対する理解が拡がっていることは事実である。なぜ選ばれるのか。
1寺檀関係が弱くなった
 寺檀関係とは葬式や法事における寺と檀家の関係だけではない。日常生活の文化の拠点的な性格が寺にはあり、これを檀家が支えた。これが葬祭だけの繋がりだけになり、葬祭でも儀礼だけの関係になり、日常生活上の接点だけでなく、人間関係という接点もなくなってくる。都会に流出した人々は故郷の檀那寺と切れるだけでなく、新たに都会で檀那寺をもつことが少なくなった。葬式だから僧侶を招いても、どの宗派でもかまわない。その時だけの係わり以上のものを期待しないからである。それなら不要とする人も出てくるのは自然であると言えよう。
2葬儀の理解の変容
 葬儀を「死者をあの世に送るための宗教儀礼」というよりも「死者との別れ」であるとする理解が拡がっている。
 死に対して宗教性を必要とする環境ではなくなりつつある。このことが、例え宗教儀礼を伴ったにしても、宗教儀礼を形式と見なし、緊張感をもって行われない葬儀を多くする原因となっている。
 葬儀式の設営であれば、本尊より遺影が大切にされるという感覚である。
 本来はこれは二面性であり、いずれかという問題ではないのだが、葬儀の宗教性の比重の著しい退潮がある。
 高齢化による死を偶発的危機という感覚の退潮も影響している。
3非宗教化
 読経に対して「意味不明の言葉を長々とやって」という言葉が聞かれる。遺族や会葬者は宗教儀礼に共鳴するものをもちえなくなっている。
 僧侶側にも説明する努力や個別の死者への対峙を会葬者と共に行うという努力が不足している場合が多い。
 せっかくの死者と対峙する時間なのに時間の無駄という反発はある。
4葬儀の定式化への反発
 これは葬儀の個性化と言われるものである。死者の生き方にふさわしい送り方があるのではないか。仏式の葬儀は定式化しており、死者の顔が見えない葬儀だという反発がある。「自分らしい葬儀」あるいは「葬儀の自己決定」を求める結果として、日常的に特定の宗教宗派に属していない以上、宗教儀礼を求めるほうが不自然との考えの台頭である。

■公的性格としての無宗教葬
 今まで述べたのとはいささか性格を異にする無宗教葬がある。自治体などが主催して行われる葬儀の場合である。
 これは政教分離の建前から、特定の宗教宗派によらないために選択されるものである。
 これが影響して社会的意味あいの強い社葬や団体葬が無宗教形式で営まれることがある。個人葬では宗教儀礼を行っても、本葬では、会葬する人々がさまざまな宗教や心情をもっていることを考慮して、特定の宗教宗派による儀礼を行わないためである。
 こういう無宗教葬もある。
 
 今の状況は、葬儀を包んでいた宗教儀礼(特に仏教)の固い皮が薄くなり、少し綻びが見え始めたようなものである。
 まだまだ宗教儀礼という皮が覆っている部分が多い。だが、薄くなってきていることも事実である。


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